以前「聖書は宗教ではない、と言うけれど」ということを書きました。今回はその続きの考察。個人的なメモとして残しておくためでもあります。
ある牧師の方がクリスチャンと日本の宗教行事に関してこんな内容のことを書いておられました。
『クリスチャンが、法事や葬儀や神事において取る態度や行動は、基本的に宗教的な意味を持っています。それに比して、クリスチャンが、それらの行事にたいして義理を欠いていると見てとられるのは。そこには、何ら宗教的な意味を見出しているわけではなく、共同体の秩序を乱されては困るという意識なのです。クリスチャンの女性が、ノンクリスチャンの家に嫁いだとき、よく問題にされる、法事や葬儀や神事にたいして礼を欠く行動や態度をとるのは、それは、あくまでキリスト者としての宗教的な態度なのです。ときとして、そのような態度を批判されるわけですが、そこに働いている意識は、あくまで共同体の秩序を乱しては困るという意識が働いているのです。よくよく観察すれば、”重要な争点の違い”ということになります。まったく違った土俵で相撲を取っているようなものなのです。共同体の秩序を問題にする者と、宗教的な意味を問題にする者との・・・。まったく争点はすれ違っています。』
この方の主張はなかなか的を得ているのでは、と個人的には思います。宗教的問題よりも、共同体の秩序が重要視される。この傾向は遠い昔からなのか、割と近代のものなのかは私の力量では判断するのは難しいのですが、昔の人々と比較して現代日本人が失ってしまったのでは?と思えるものが、この宗教心、宗教に対する思いではないでしょうか。
かつて小泉純一郎氏が首相を務めていた時、靖国神社参拝の是非についてこのような発言をした記憶がありります。
「先祖を拝むことは宗教ではない。人間として当然のことだ。」
この発言にも、宗教的問題ではなく、共同体の問題という意識、宗教なら問題あるけど、宗教じゃないからOKという思いがあるのではないでしょうか。どう見ても宗教的な行動も、宗教ではないという看板を掲げて正当化する。これでは「聖書は宗教ではない」と言っている主張と変わりないようにも思えます。
東京基督教大学教授の櫻井圀郎氏は著著「異教としてのキリスト教からの脱却」でこう指摘しています。
『筆者の住むニュータウンは大学や企業を誘致し、30万人の大規模住宅団地である。国の事業なので、ニュータウン内には神社や寺院はない。当然教会も作れない。しかし、ニュータウンを出ると別の世界。多くの神社や集落の境には多くの石像や石塔が立っている。
無宗教都市は、宗教的な伝統も慣習もないのでキリスト者には住みやすいのだが、はたしてそれでいいのだろうか。何か大事なことを忘れているような気がする。戦後の政治や教育は日本の国全体を無宗教化してきたが、それでよかったのだろうか。
道端のこれらの石像や石塔は、基本的に、自分たちの罪を贖い、外からの邪気・悪霊の侵入を防ぎ、自分たちのうちから邪気・悪霊を除くために建てられたもの。それは特別啓示に照らせば誤っていることは明白だが、特別啓示を知らない人々が知恵と経験を結集して生み出してきたものだ。
それらは明らかに間違っているのだから否定するのは簡単だが、それだけでよいのであろうか。それらを否定することで行きつく先は、戦後の日本が目指してきた無宗教化社会ということになるだろう。先にも述べたが、無宗教都市はキリスト者には好ましいように思われる。日本のキリスト者は無宗教社会のほうが居心地が良いために、自らが宗教者であるということを忘れて、無宗教を推進してきたように思われる。一般の日本人に、日本のキリスト教が「異教」と感じられる一つの点だ。』
日本の既存の宗教を否定することによって、自らの首を絞めてしまい、その結果生まれてきたものは無宗教化社会か、自分の生き方を変える必要のない興味本位のスピリチュアル的なものということでしょうか(もちろん極端なもの言いですが)。
かつてパウロがアテネを訪れた時、アテネの人々にこのように語りかけました。
『そこでパウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの人たち。あらゆる点から見て、私はあなたがたを宗教心にあつい方々だと見ております。私が道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、『知られない神に』と刻まれた祭壇があるのを見つけました。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう。この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。』(使徒の働き17章22~24節)
このパウロのメッセージはあくまでも宗教心にあつい人々に対して語ったものだと考えるなら、現代日本人には通用しないアプローチの仕方ということになるのでしょうか。八百万の神々が存在する日本こそ、本来このパウロのメッセージを聞く素地があるはずなのですが、宗教ではないという衣によって(一部のキリスト教に限らず日本の社会が)逆に耳を傾けにくくなっている側面があるのかもしれません。
鹿児島のナザレン教会の久保木牧師のブログも興味深いです。ご参考に。
http://blogs.yahoo.co.jp/sjy0323jp/62175476.html
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