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2014年6月28日土曜日

WOW

「your praying and your preaching should be of the same length」という言葉を教えていただきました。返す言葉もございません。

2014年5月8日木曜日

そうだね

キリスト教会では著名なジョン・パイパー氏とリック・ウォレン氏の対談の動画を見ました。
ウォレン氏には良い評価だけでなく、悪い評価をする人も多いのですが、対談のはじめにパイパー氏が言った言葉に感じ入りました。

「私は驚いたのです。この本(ウォレン氏のベストセラー「人生を導く5つの目的」のこと)に浴びせられた中傷めいた酷評の多くは、聖書に従う人なら決してしないであろう中傷でしたから…。」

この後パイパー氏はご自分の立場から疑問に思う点を尋ねていきますが、簡単に「あの人とは神学的、聖書解釈が違う」といって批判ばかりしているような、ともすると「聖書に従う人なら決してしないであろう」態度・言動をしている、自分にもそんなところがあるかもしれないと反省させられました。

http://japan.cgntv.net/newsub.asp?pid=2680


2014年2月13日木曜日

Christ is All /2013.7.9

子供の頃から歌ってきた聖歌。Wikiによると「現在は教文館が版権をもっており、絶版になっている。」なんだそうですね…。

その聖歌の中でも私の好きな曲ベスト3に入るのは、「貧しくあれども」(聖歌473)。Youtube動画を貼り付けようと思ったのですが、日本語はもとより英語のものさえ見つけられず[もうやだ~(悲しい顔)](誰か見つけたら教えて)。

MIDIのものが見つかったので、リンク貼っておきます。リンク上の歌詞は英語ですが、日本語訳の歌詞もなかなかいい線いってると思うのですが。中田さんって、才能あるなーと。

christ is all

版権の関係で歌詞は載せられないのが残念[ふらふら] 

悲しくてやりきれない /2013.6.17

いや、ほんとリアルタイムで原曲を聞いていた世代ではないんです[ふらふら]
でもいわゆるフォークソングって10代の頃は好きで聞いてました。

この曲は有名ですよね。元歌はフォーク・クルセダーズのやつ。

思ったんですけど、こんな歌詞クリスチャンの歌、あんまりないですよね。
特に日本語で。
まぁ、自分が知らないだけなのかもしれません[もうやだ~(悲しい顔)]

この世の罪に、不条理に、悲しくてやりきれない
自分の罪深さに、悲しくてやりきれない
そんな悲しみの闇の中に、光は差し込むのだと思うのですが。


ルパン三世 /2013.4.10

『自由ってのも、結構面倒なもんでよ。いつでも自由でいるためには、やんなきゃなんねぇしんどいことだってあるんだよ。』(ルパン三世 ワルサーP38より、ルパンの言葉)

わかってるねー、ルパン。

『キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。』(ガラ5:1 )


It Wasn't His Child /2013.4.6


自分の子どもは可愛い。親ならきっとそう思うはず。
自分の子供は愛おしい。親ならそう感じるはず。
自分の子供といっしょにいるのは楽しい(そうでもない時もあるけど(^_^;))。親ならその時間を大切にしたいはず。

だから神様は私達を「自分の子」としてくださったんだね。

『あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。』(ヘブル12:7)

あ、それからタイトルの「It Wasn't His Child」をYoutubeで検索してみてね。

With Or Without You /2013.4.2


ずっと前にも書いたかな?
いわずと知れたU2の代表曲。20代前半の頃からよく聞いてました。
ボノさんは何も解説してないようですけど「and you give yourself away」はやっぱり「あなた(キリスト)は自分を投げ出された」と読みたいですね。
ある解説では「肝心の"With or without you(あなたがいてもいなくても)"というのは、キリストがいなければ私たちは信仰を保つことができないが、あなたがいてすら信じ続けることは難しい、という意味だと思う。」とあったり、色々解釈があるようですね。

2014年2月12日水曜日

替え歌を作ってみた/2012.3.3

昨日紹介した海援隊の「人生のメッセージ」という曲。

クリスチャン(あくまでもオイラの主観です)用にいくつかの歌詞を変更し、替え歌歌詞を作成。
で、一人で熱唱[あせあせ(飛び散る汗)][パンチ]
ーーーーーーーーーー
1)
誰の言葉も今は ほしくない聞きたくない
誰にも甘えずこの人生を 生きていくために

やっと一人になれた 寂しい丘の上で
僕は僕の声で小さく 僕に話しかける

嘆くのはやめよう 自分の醜さを
まして人の醜さなんて 責められる僕じゃない

どんなに迷っていても 道はひとつしかない
イエスの前から広がる道さ この道ゆくしかない

僕は若くて何も知らず 確かに愚かだけれど
だけど僕の人生は今 始まったばかり
だけど僕の人生は今 始まったばかり

2)
いつも急がされて いつも迷っていた
周りの誰もがこの僕より 正しいように見えた

イエスの言葉に生きるために 傷つくこともあった
心で寂しさ確かめながら 約束見上げながら

あふれる涙でどんなに堅く まぶた閉じても
ふりそそぐ光はそれでも 瞳に感じてしまう

あまり簡単な言葉じゃないけど 希望という言葉は
涙と信仰を透かして見える 遠い日差しのことさ

僕は若くてつまづくけれど 何度もつまづくけれど
だけど僕の人生は今 始まったばかり
だけど僕の人生は今 始まったばかり

3)
ふるさと離れた車の中で 見つめた街の灯は
手を降るように悲しく揺れた 今も忘れはしない

イエスといっしょに歩き始め 共に歩き続けた
暮らしに困って眠れぬ夜や 優しい友との別れ

どんなに歩き疲れていても 僕の心の中
イエスがそっと僕にささやく もっと遠くへゆこう

僕の人生すべて イエスのためのもの
だけどだからイエスのように 愛に生きたいと思う

僕は若くて間違うけれど 何度も間違うけれど
だけと僕の人生は今 始まったばかり
だけと僕の人生は今 始まったばかり
そして君の青春も今 始まったばかり
ーーーーーーーーーー

まあ「若くて」というのはもう当てはまらないかもしれないでど。 

NewLifeのカセットテープを高校時代よく聞いてました/2012.2.22

聖書の中に「いつも喜びなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことに感謝しなさい。」という言葉があります。10代の頃は、そんなことできるわけがないと思っていました。
じゃあ、今はできるようになったのか?というと、残念ながらそうではありません。しかし、この言葉が意味することは少しわかったような気がしています。

なので、わかったような気持ちでいる私の理解をちょっと紹介(あくまでも自己満足だけどね)。

「いつも何となく、祈らず、すべてのことに不平不満を言いなさい。」というのは、実は意識しなくても自然にできるのです。私達は基本的に、文句を言い、悪いところを見つけるのに力を用いています。しかし、喜び、祈り、感謝することは、自分で意識して、そこに目を向けないとできないことです。「~なさい」と命令形で書かれているのは、そう言われないと、私達は感謝ではなく、不平不満の方に自然といってしまうからだと思います。

また、「喜ぶこと・祈ること・感謝すること」を意識している人は、当然意識していない人より「喜ぶこと・祈ること・感謝すること」が増えるはずです。それは自分のアウトプット、つまり話すこと・態度に現れるはずです。人は基本的に、感謝や喜びの言葉・態度には、同じ態度で反応します。悪い言葉や悪い態度を投げれば、悪い言葉や悪い態度が帰ってきます。いつも喜び・祈り・感謝することを意識している人は、自分が発する喜び・祈り・感謝の言葉や態度によって、相手の感謝や喜びを引き出すことができるのです。

さらに自分の態度や言葉は、跳ね返って自分にも返ってくるわけですから、自分を不平不満から守ることにもなるのです。

今はこんな風にこの言葉を理解しています。

ちなみにこの記事のタイトル「NewLifeのカセットテープを高校時代よく聞いてました」がわからない人は、個人的に聞いてね。

2014年2月10日月曜日

読んでいるブログから/2011.3.19

「小さないのちを守る会」の水谷師のブログで取り上げられていた問題。同感です。
 http://blog.chiisana.org/?eid=1407729

聖書は宗教ではないというけれど/2011.2.27

 以前「聖書は宗教ではない、と言うけれど」ということを書きました。今回はその続きの考察。個人的なメモとして残しておくためでもあります。  

 ある牧師の方がクリスチャンと日本の宗教行事に関してこんな内容のことを書いておられました。 『クリスチャンが、法事や葬儀や神事において取る態度や行動は、基本的に宗教的な意味を持っています。それに比して、クリスチャンが、それらの行事にたいして義理を欠いていると見てとられるのは。そこには、何ら宗教的な意味を見出しているわけではなく、共同体の秩序を乱されては困るという意識なのです。クリスチャンの女性が、ノンクリスチャンの家に嫁いだとき、よく問題にされる、法事や葬儀や神事にたいして礼を欠く行動や態度をとるのは、それは、あくまでキリスト者としての宗教的な態度なのです。ときとして、そのような態度を批判されるわけですが、そこに働いている意識は、あくまで共同体の秩序を乱しては困るという意識が働いているのです。よくよく観察すれば、”重要な争点の違い”ということになります。まったく違った土俵で相撲を取っているようなものなのです。共同体の秩序を問題にする者と、宗教的な意味を問題にする者との・・・。まったく争点はすれ違っています。』
  
 この方の主張はなかなか的を得ているのでは、と個人的には思います。宗教的問題よりも、共同体の秩序が重要視される。この傾向は遠い昔からなのか、割と近代のものなのかは私の力量では判断するのは難しいのですが、昔の人々と比較して現代日本人が失ってしまったのでは?と思えるものが、この宗教心、宗教に対する思いではないでしょうか。  

 かつて小泉純一郎氏が首相を務めていた時、靖国神社参拝の是非についてこのような発言をした記憶がありります。
「先祖を拝むことは宗教ではない。人間として当然のことだ。」
この発言にも、宗教的問題ではなく、共同体の問題という意識、宗教なら問題あるけど、宗教じゃないからOKという思いがあるのではないでしょうか。どう見ても宗教的な行動も、宗教ではないという看板を掲げて正当化する。これでは「聖書は宗教ではない」と言っている主張と変わりないようにも思えます。  

 東京基督教大学教授の櫻井圀郎氏は著著「異教としてのキリスト教からの脱却」でこう指摘しています。
『筆者の住むニュータウンは大学や企業を誘致し、30万人の大規模住宅団地である。国の事業なので、ニュータウン内には神社や寺院はない。当然教会も作れない。しかし、ニュータウンを出ると別の世界。多くの神社や集落の境には多くの石像や石塔が立っている。 無宗教都市は、宗教的な伝統も慣習もないのでキリスト者には住みやすいのだが、はたしてそれでいいのだろうか。何か大事なことを忘れているような気がする。戦後の政治や教育は日本の国全体を無宗教化してきたが、それでよかったのだろうか。 道端のこれらの石像や石塔は、基本的に、自分たちの罪を贖い、外からの邪気・悪霊の侵入を防ぎ、自分たちのうちから邪気・悪霊を除くために建てられたもの。それは特別啓示に照らせば誤っていることは明白だが、特別啓示を知らない人々が知恵と経験を結集して生み出してきたものだ。 それらは明らかに間違っているのだから否定するのは簡単だが、それだけでよいのであろうか。それらを否定することで行きつく先は、戦後の日本が目指してきた無宗教化社会ということになるだろう。先にも述べたが、無宗教都市はキリスト者には好ましいように思われる。日本のキリスト者は無宗教社会のほうが居心地が良いために、自らが宗教者であるということを忘れて、無宗教を推進してきたように思われる。一般の日本人に、日本のキリスト教が「異教」と感じられる一つの点だ。』  

 日本の既存の宗教を否定することによって、自らの首を絞めてしまい、その結果生まれてきたものは無宗教化社会か、自分の生き方を変える必要のない興味本位のスピリチュアル的なものということでしょうか(もちろん極端なもの言いですが)。  

 かつてパウロがアテネを訪れた時、アテネの人々にこのように語りかけました。
『そこでパウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの人たち。あらゆる点から見て、私はあなたがたを宗教心にあつい方々だと見ております。私が道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、『知られない神に』と刻まれた祭壇があるのを見つけました。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう。この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。』(使徒の働き17章22~24節)  

 このパウロのメッセージはあくまでも宗教心にあつい人々に対して語ったものだと考えるなら、現代日本人には通用しないアプローチの仕方ということになるのでしょうか。八百万の神々が存在する日本こそ、本来このパウロのメッセージを聞く素地があるはずなのですが、宗教ではないという衣によって(一部のキリスト教に限らず日本の社会が)逆に耳を傾けにくくなっている側面があるのかもしれません。

鹿児島のナザレン教会の久保木牧師のブログも興味深いです。ご参考に。
http://blogs.yahoo.co.jp/sjy0323jp/62175476.html

2013年12月10日火曜日

君が、嘘を、ついた/2010.11.24

来年に私達の教会結婚式を挙げる二人[ムード]のために、結婚カウンセリングの時がもたれた。宣教師の方がカウンセラーなのだが、私も後学のために参加させていただいた。

カウンセリングの始めにその宣教師の方がひと言
「結婚生活にいろいろ問題が出るのは、二人が罪人だからです。」

そうだよね!当たり前のことなのかもしれないが、非常に納得[パンチ] 

踏み絵/2010.10.5


9月半ばに家族の遅い夏休みをいただいて、天草に行ってきた。

そこで初めて実物の踏絵を見ることができた。
それからキリシタン禁制の高札の実物も初めて見た。
当時の隠れキリシタンたちの生活についても、いろいろ知ることができた。

キリシタン禁制の高札が撤廃されたのは、今からわずか130年ほど前。
それまでは日本中でキリシタンが迫害されていた。

1619年10月6日、京都で12名の子供を含む53名のキリシタンが処刑された。
その中にテクラ橋本という女性がいた。
彼女はお腹の子供も合わせると6人の子供たちと一緒に十字架に縛り付けられて、火刑に処せられた。
炎の中で「お母さん、もう何も見えません。」と叫ぶ13歳の娘カタリナに対して、
テクラは優しくこう言ったそうだ。
「大丈夫だよカタリナ。今は苦しくても、何も見えなくても、
必ず神様がすべてのことを はっきりしてくださるから。」

焼け落ちた後もテクラは3歳の娘ルイサをしっかりと抱きしめていたという。

親となった今、自分と子供の姿に重なり、胸が締め付けられる思いになる。

2013年11月18日月曜日

聖書は宗教ではない、と言うけれど…/2010.8.30

 福音派のグループではよく「聖書は宗教ではない。宗教というのは人間が作った神。聖書は人間をお造りになった神がご自分から掲示された、つまり人間が考え出したものでない」というような説明を聞くことがある。

確かに辞書を見ると宗教の説明に「神・仏などの超越的存在や、聖なるものにかかわる人間の営み。」と書かれている。つまり辞書の定義で言えば、確かに聖書は人間の営みではなく、人間に対する神の営みと言ってもよいだろう。この定義であれば、確かに辞書が定義する宗教と聖書とは違うと言えるかもしれない。

 しかし、この説明、わからないわけではないが、あまりにも乱暴すぎるかなという気がするのだ。その理由は「宗教とは何か?」という共通した理解があれば成り立つが、そうでなければあまり説得力のないものになってしまうと感じるからだ。

みんなが辞書が定義しているような宗教に対する理解・定義をしているわけではないだろう。例えば「人間が作り出そうと、神が啓示しようと、超自然的な(それを神と呼んだりする)存在について扱うものは、すべて宗教である」という考えの人には、前出の説明は意味をなさない。

 さらにもうひとつの問題点は、イスラム教、ユダヤ教も啓示宗教と考えられているし、人によっては仏教までも啓示宗教だと考える人もいるということだ。その考えに従えば、これらの宗教も宗教ではない(ややこしい…)ということになってしまう。

 すると問題になるのは、「啓示された」ということが本当かどうかということ、またその内容になるのだろう。そのことを丁寧に、慎重に、謙遜に学び続ける必要があるなーと思うのだ。

阿蘇の山々は何であんなに緑なんだろう/2010.8.21


トウモロコシが食べた後ですみません…。
先日熊本の益城にある教会のキャンプに参加した時の夕食の写真です。
キャンプ会場となったのは阿蘇にあるクリスチャンの方が経営されているペンション。
こんな豪華な食事の教会キャンプに参加したことない[どんっ(衝撃)]
味もバッチリでした[手(チョキ)]

食事がすばらしかったのはもとより、キャンプに参加した教会の方たちの働きに感心し、講師のはずがたくさん教えられて帰ってきました。

明日から子供キャンプ/2010.7.26

明日から一泊二日で小学生キャンプです。毎年のことですが、半分楽しみ、半分年齢による体力の衰えを感じるイベントでもあります[もうやだ~(悲しい顔)]
今年も30名を超す参加申し込みがありました。暑い日が続いていますが、ケガや病気、事故もなく良いキャンプになりますようお祈りください。

なお来週は中高生キャンプです。参加者募集中です。

それから再来週は熊本の木山キリスト教会の青年キャンプに呼ばれています。キャンプ続きだ…。 

社会経験/2010.6.25

牧師のようなフルタイムの働き人になるために社会経験は必要か?という話しはよく聞くところだ。
これには様々な意見があるだろう。

「社会経験がなければフルタイムの働きはできない」と言うのは言いすぎだろう。神の召しは一人一人違うのであって、社会経験は絶対条件ではない。神がその人を召されるときには、社会経験を経てからもあるだろうし、学生からすぐにという場合もあるだろう。問題は召しが確かなものであるかどうか(それは主観的なことだという意見もあるだろう)が重要なのであって、社会経験があるかどうかではない。それに社会経験を経た方たちはみんな働き人として成功し、素晴らしい成果を挙げているということでもないだろう。
しかし、一人一人に神の召しが違うのならば、「社会経験をしたほうがいい」という選択肢を全く退けてしまうことも極論であろう。確かに「この人の場合は社会経験をしたほうがいい」と思える人もいるわけだし。

以前にも同じような相談を受けたことがあるが、そんな学生たち(社会経験を経ずにフルタイムの働き人になる、なろうとしている人)には、「自分は社会経験がほとんどないので、わからない部分、例えば企業や団体の中で戦い悩んでいる方の気持ちがわかりにくい部分もあるかもしれない。」と考える謙遜さをもって欲しいと思う。神に召されたのだから、私は大丈夫と思ってほしくはないのだ。
むろん「自分は社会経験を経てから働き人になったので大丈夫だ」というのも、反対の意味で謙遜さが不足していることだが…。

社会経験を経ても、経なくても、働き人として自分には不足していることろ、わからないところ、経験不足のところが多々ある、教えられていかなければならない者である、そんな視点・姿勢を忘れないようにしてほしいのだ。もちろん自分も含めて。

2013年11月14日木曜日

素直になれなくて/2010.5.4

 教会ではどうしたら神様に喜ばれる生き方ができるか、どうしたら失敗を防げるかについて語られることが多い気がする。もちろんそれは非常に大切なことだ。病気だって、どうやって治すかより、どうやって予防するかを考えて実行したほうが良いに決まっている。

 しかし、転んでしまった時、失敗した時、どうしたら起き上がれるか、どうやって立ち直るかについては、あまり語られていないのではないかという気がする。自分も含めて、人は失敗するという視点が少なすぎるのかもしれない。信仰生活が長くなれば、もう大丈夫、失敗する、間違うことなんかないとは誰も言えないはずだ。むしろ、信仰生活が長い人ほど、つまずいた時・失敗した時に立ち直れるかどうかは難しさも増すのではないだろうか。

 人は失敗する、間違う。この視点を忘れてはいけないと思う。失敗しないように、間違わないように教えるのと同時に、失敗した時、間違った時にどうしたらいいか、どうやって起き上がるのかを共に考え、語ることを忘れないようにしたいと思う。

花 ~泣きなさい 笑いなさい~/2010.4.20

「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい」という聖書の言葉がある。よくこの言葉をめぐって、いっしょに喜ぶことと、いっしょに泣くことと、どちらの方が難しいか?という話になることがある。
「いっしょに喜ぶ方が難しい」、
「いや、いっしょに泣く方が難しい」と、いつも意見は分かれるようだ。

しかし、喜ぶ方か泣く方かという見方をしたら、この言葉の本質を見失ってしまうような気がする。問題は「いっしょに喜ぶこと・いっしょに悲しむこと」ではなく、「誰とともに」ではないかと思うのだ。

自分の愛する人・尊敬する人と、自分が憎んでいる人・自分の敵と、どちらの方がいっしょに喜び、いっしょに泣くことがより難しいだろうか。
ともに喜び、ともに泣くということは、自分がその人の「となりびと」になっているかどうかが問われるところだと思うのだが。

イースター/2010.4.6

イースター、無事に終わりました。姶良市になってはじめてのさえずりの森。子どもたちの玉子探しのために、朝8時過ぎに会場となるさえずりの森へ。数名の協力者と玉子やらお菓子やらを隠していると、みんなの頭が白くなっていくではないか!! 雪か? いやまさか? 灰だ! 桜島からの灰がまるで粉雪のように降ってくるではないか!困った…。このままでは屋外では無理かも…。

 しかし皆さんのお祈りのおかげで、灰はなんとか収まり、無事にイースター礼拝を終わることができました。天気は曇り空[曇り]だったけど、かえって暑くなく良かったかも。来年は「雨の場合は教会で」だけではなく、「雨または降灰の場合は…」としないといけないかな…。とりあえず灰だらけになったスーツをクリーニングに出さないと…。