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2013年11月18日月曜日

第21話 放射線治療/2010.9.7

「匂いなんてしないよ」
「いや、本当に匂うんですって、すごく嫌な匂い。」
「うーん、そういえば、○○さんも同じようなこと言ってたなー。」

また、いきなり何の会話?と思われたでしょう。
美しい花の香り、いえいえ、新製品の湿布薬、とんでもない、麗しい乙女の香り・・・すみません、行き過ぎました。実は、この会話、放射線治療を巡っての、私とドクターの会話なのだ。

苦しい投薬・抗がん剤治療が一段落して、今度は放射線治療を行なうことに。
3日おきに、計10回放射線を照射する。照射部位は、ちょうどこめかみのあたり。
その治療を行なう説明を受けるには受けたけれど、何となくちんぷんかんぷん。患者の立場の私とすれば、医者がすると言えば、白旗を振って従うのみである。なんて従順な患者なんだろう。もっとも、反対する理由は何もなかったのだけれど・・・。

私が今度放射線治療を行なうとわかると、頼んでもいないのに放射線治療に関する情報が同じ入院患者などから提供されてくる。
「胃癌などの人が、お腹に放射線をあてる治療をしたりすると、苦しくてなにも食べられなくなってしまうらしいよ。でも、頭にあてるときはたいして苦しくないらしいから。」

病院だけに、そういう情報は妙に早く耳に入るし、また場所が場所だけに何か信憑性が高いような気さえする。

そんなやりとりがされているところに、放射線科からお声がかかった。これから照射部位を決めるのだそうだ。いったい何をするのかと思えば、毎回毎回同じところに放射線を当てるために、頭に印をつけるという。普通のマジックペンで…おまけに油性である。

放射線科から帰ってきた私の頭は、坊主頭にいたずら書きでもされたかのように、黒いマジックペンの線がいくつも踊っていたのである。

「おっ、かっこいいねー」
さっそく、同じ病室の人たちから声がかかる。
もうなんでもありだなこりゃ、と私も観念しているので、
「どうせなら黒いペンじゃなくて、赤いのや青いのを使ってくださいって言ったんですけどねー」
などと開き直ってみせる。まあ、別にこんなことどうでもいいんですけど・・・。

さて、しっかりと油性で書かれたしるしのおかげで、放射線の照射も順調にすすんでいった。
ところが、だんだん治療が進んでいくうちに、初めに書いたように放射線の匂いが気になり始めたのである。医者や看護婦の説明では、絶対に匂わないというのだが、そんなことはない。確かに、外から匂ってくるというわけではなくて、鼻の奥のほうから、からだの中から匂ってくるのである。なんとも言えない、気持ちが悪くなる匂いなのだ。

これは、退院してからのことなのだが、一度だけあの放射線治療の時の匂いに遭遇したことがある。話すのも恐ろしいのだが、ある知り合いのうちで夕食をご馳走になったときに、ソーセージのスープを作ってくれたことがあった。そのソーセージを一口食べたとき・・・・、なんとあの放射線と同じ匂いがしたのである。私は思わず吐きそうになるほど、気分が悪くなってしまった。ところが、回りの人たちは平気で食べているのである。いくら私と言えど、せっかく出されたのに、放射能の匂いがするなんて言ったら、そりゃ失礼である。気持ちの悪いのをこらえて、食事を続けた。あー、今思い出しても恐ろしい。放射能汚染は私たちのみじかにまで迫ってきている[がく~(落胆した顔)] まあ、本当に放射能だったら大問題だけれどね[ふらふら]

もとい。
匂いはとうとう消えることがなかったが、放射線治療は無事に終了した。私の頭のマジックペンの線も、少しづつ消えていった。

あれから放射線治療は、匂いがするという学説が発表されただろうか。もし発表されていれば、医学界を揺るがす大発見に・・・なるわけないか・・・。
参考までにつけ加えると、あれ以来放射能の匂いがする食べ物には幸か不幸かめぐりあっていない。

2013年11月14日木曜日

第20話 今を生きる/2010.5.11

ニコッと笑いながら、山本(仮名)さんが病室に入ってくる。初めて見る人は、ちょっとびっくりするだろう。いやいや決して山本さんの笑顔がひどすぎるなんてことではない。山本さんの頭は、見事に照り輝いているのである。とってもきれいな坊主頭。(坊主頭にきれい、汚いがあるかどうか知らないが・・・)

もしかしてお坊さん?と思いたくなるが、残念ながらお坊さんではない(別に残念ではないか・・・)。坊主頭が趣味・・・もとい、この人も治療のために髪の毛が全部抜けてしまった人なのだ。その山本さんが、同じく治療中で髪の毛がまったくない坊主頭の私のところにお見舞いに来てくれたわけである。うーん、二人の坊主頭の青年が親しく語り合う姿は、あんまり想像したくない絵柄のような・・・・。

青年と書いたが、この山本さん、工業大学の学生で、私がこの大学病院に転院してくるちょっと前にこの病棟を退院したのである。つまりわたしの先輩 (病棟のね)なのである。私と同じような血液の病気だったと思うが、この人の治療中の様子を聞くと、もうそれはそれは壮絶であって、私のほうが少しはいいかなーとさえ思えてくる。髪の毛はもちろん、体中の毛という毛、鼻毛まですべて抜け落ちて、薬のせいで腕を上げることすらできなくなったらしい。まばたきすら大変だったというのだから、もうそれってどんな世界?という感じである。

どうしてそんな彼と知り合うようになったかというと、当時この大学病院では私の知り合いのクリスチャンの看護婦の方たちが何人か働いていて、その中の一人の方が、山本さんを連れて私のところにお見舞いに来たのである。なぜ彼女が彼を連れてきたのか、その理由をはっきり覚えていないのだが、同じような治療をした者だから私の気持ちが良くわかるだろうということと、二人が同じような病気になった者同士で、聖書や信仰の話ができたらと思っていたのだと思う。

その後も、病院に検診に来るたびに、病棟まであがってきてくれて、私のところに顔を見せてくれた。私が大学病院での治療を終えて退院した後も、山本さんとの交流は続き、ときどき大学病院に診察に行ったときなども、待合い室で顔を合わせ、よもやま話をしたものだった。

私が退院してしばらくすると、今度は山本さんの方が、また入院することになった。点滴をしている私のベットのそばに座っていた山本さんが、今は点滴を受け、そのベッドの横に私がいる。人間全く次の瞬間どうなるかなんてわからないものだ。

自分自身を省みても、なんて愚かなんだろうと思うときがある。あれだけの苦しい治療をし、その中で神ご自身の御言葉と、兄弟姉妹たちの励ましと、多くの経験をしてきたのに、少し落ち着いた生活ができるようなったとたん、しまりのない歩みをしてしまう。病院のベットにいたときは、同じ病室の人たちが次々と亡くなっていくのを見て、次は自分かもしれないという緊迫感と、備えをしなければならない、神にあう時が明日くるかもしれないそんな思いだったのに・・・。

「明日神にお会いするように、今日を生きなさい」
誰の言葉か知らないが、ずきっとさせられる。いや、しかしまさにその通りだ。
今を、今をどのように生きているのか。退院して落ち着いたら、今ベットに寝ている山本さんと同じ立場に立てなくなっている自分。なんて自分勝手なんだろう。明日私はこの地上にいないかもしれないのに・・・。
落ちていく点滴を山本さんとともに眺めながら、静かに時間が過ぎていく。

好きな言葉、「根性」「Attack is the best defence」(攻撃は最大の防御なり)。
私のアドレス帳に山本さんはそう書いた。積極的で、明るい彼が好きそうな言葉だ。
実際の彼に会ったら、これを読んでいる人誰もがなるほど彼らしいと思うだろう。
もし彼がまだ生きていればの話だが。

聖書の中にクリスチャンは雲のように多くの信仰の先達に取り囲まれてこの地上を歩んでいるという箇所がある。私はその証人の他に、山本さんをはじめ私にかかわって私より先に亡くなった方たちが、私の歩みを見ているような気がする。今日の歩みは、彼らの命に答えているものだろうか、と思う。

「こういうわけですから、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまとわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐を持って走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」 (新約聖書ヘブル12:1,2)

2013年11月2日土曜日

第19話 大工の清水さん/2008.10.22

「この間新しいバイクを買ってさー、関越自動車道で200km出してみたんだけど、さすがにびびったねー。」
なんとまあ、突拍子もないことをするか、と耳を疑いたくなるが、小柄な体で1000ccもあるようなバイクを乗り回す、私のとなりのベットの清水さんはそんな人だった。彼の仕事は大工。前に何度かこの話の中にも出てきたから、覚えている人もいるかも知れない。彼の気さくな性格もあって、よく大工仲間が、特に十代の若い大工青年たちがよくお見舞いに来ていた。

日曜になると、必ず奥さんが二人の女の子を連れてやってくる。大工さんだけあってなかなかにいなせで、楽しい清水さんによく似合った、明るく豪快なお母ちゃんといった感じの奥さんだった。清水さんが小柄でやせているのに対して、奥さんは本当に体格がいい。蚤の夫婦とは、このご夫婦のためにある言葉であろうと思われるほどである。

清水さんが入院してきたのは、夏の暑さもそろそろ消え始める秋ごろだった。仕事で屋根に登っていたら、くらくらしてきて立っていられなくなり、病院に行ったところ入院ということになったらしい。大工ならシンナーを扱ったりすることがあるから、初めはそのせいだと思っていたらしいが、検査を進めていくうちにそうではないらしいということがはっきりしてきた。

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ある夜のことだった。消灯時間になって、病室の電気が消され、それぞれがベットの中にもぐりこんだ。
10分、いや20分ぐらいたったときだろうか、隣のベットで寝ているはずの清水さんが突然私に話しかけてきた。

「なあ、多胡くん。今日昼間に母ちゃん(奥さんの意)が来ただろう。」
「はぁ、来ましたねぇ。」

二人とも自分のベットに寝たまま、暗闇の中で天井を見つめながらの会話である。もちろん互いの顔などは見ることはできない。

「今の母ちゃんさぁ、三人目の母ちゃんなんだよ。」
「・・・」
「最初の母ちゃんとは死に別れて、次の母ちゃんとは離婚して、今の母ちゃんは三人目なんだよ。」

暗闇の中で突然話しかけてきたと思ったら、一体何のことを、私の頭はどのようにそれを受け止めてよいかわからなかった。こういうときには、やぁそうでしたかとか、大変でしたねぇなどと、とりあえず言ってしまうのが私なのだが、このときは、突然、しかも考えたこともないことが来たので言葉を返すこともできなかった。

「なぁ、多胡くん。母ちゃんを選ぶときは顔で選んじゃいけないぜ。
 俺の友達で絶世の美女と結婚した奴がいるけれど、家の仕事は何もできない、もうただの置物さ。
 俺の母ちゃんは、見かけは良くないけれど、家のことをちゃんと任せておけるからな。」

美人の方の名誉のために一言付け加えさせてもらうが、美人の人すべてが清水さんの言う通りだと言っているわけではないので、あしからず。
でも、何で清水さんは突然そんなことを言ったのだろう。病院のベッドに寝ているうちに、過去のことを思い出して感傷にでもひたっていたのだろうか。それとも、ちょっと驚かせてやろう、とでも思ったのだろうか。しかし、私に話していながら、自分に言い聞かせているような話し方をしていたのはどうしてだろう・・・ 。

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清水さんの病気は、再生不良性貧血だった。難病に指定されている病気である。ある日を境にして、発熱が始まり、もう熱が下がることはなかった。かなり大変だったとみえて、あの威勢のいい清水さんがぽつんと一言「まいった」とつぶやいた。いつの間にか秋が終わり、師走を迎えた世間の人達は忙しく動き回っている頃だった。
 
その頃私は治療成績優秀ということで、年末年始の外泊を許された。久しぶりの我が家!胸が躍った。外泊するその日、清水さんの病室に顔を出すと、愛嬌ある笑顔で私を送り出してくれた。
                
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久しぶりの我が家を十分満喫して帰ってきたときには、清水さんのベットは空になっていた。
他の患者さんの付き添いの人が、
「きのう急にだったんだよ。頭の血管が切れたみたいでねぇ。結構元気だったんだけど・・・。」
と話してくれた。

まさか・・・。
想像もしていないことだった。具合は確かに良くなかったけど、でもこんな急に・・・。マットレスだけになったそのベットを私はしばらく呆然と見つめていた。頭の中には、清水さんの愛嬌のある笑顔が浮かんでくる。あまりの呆気なさに、まるで現実感がない。
清水さんの笑顔が消えると今度は、あの豪快で、いかにもかかあ天下のお母ちゃんといった感じの清水さんの奥さんの顔が浮かんだ。でも私の脳裏に思い浮かんだのは、いつものあの笑顔の奥さんではなく、深い悲しみに包まれている顔だった。


『罪からくる報酬は死です』
聖書の御言葉は確かに真理だ。この世で罪のない者はいないし、だからすべての人が死ぬ、これは大原則だ。ということは、逆に言えば罪がなければ死ぬことはない、罪のない人が死ぬということがあったとしたら、それは原則に反した、例外的な、奇跡的な死だということになるだろう。
 
イエス・キリストは、ただ一人罪のない生涯を歩まれたお方だ。だから、聖書の原則に当てはめてみれば、このお方は死ぬことがない。死のうと思っても、罪がないから死ねない。ところがどうだったろう、キリストは二千年前、確かに十字架にかけられ、殺された。死ぬはずのない方が、確かに死なれたのだ。キリストの死は、はたして例外的な、奇跡的な死だったろうか。いや、私たちと同じように、苦しまれ、死んでいかれた。そこには、奇跡的な要素などなく、死に渡されていく姿を見ることができる。確かに主は、罪人の罪を負って、みずから罪ある者かのように死なれたのだ。私たちの罪を、ご自身の罪かのように背負われ、ご自身の罪として、死んでくださった姿を、あの十字架に見ることができる。
『そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。
 それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。
 キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。』(聖書)

第18話 味のある言葉/2008.6.10

 こうげん病。あー、あの高い山に登ったときにかかる病気でしょうと思った方、それは高山病。
こうげん病、漢字では膠原病と書く。「皮膚、軟骨などの結合組織の硬蛋白質の変性を本態的病変とする疾病の総称。」と辞書には書いてあるがこれだけではさっぱりわからない。病状としてはリウマチに似ていて、腎臓などにも障害が出てくるらしい。進行すれば命にも関わる病気でもある。そして傾向としては、女性に多く、男性に少ない病気と言うことだ。

 佐藤さんは30代前半、働き盛りの男性であり、先頃結婚もしたばかりだ。最近どうも体調がすぐれないので、病院で検査してもらったところ男性には珍しい膠原病であるということがわかった。すぐに入院になり治療が始まったが、膠原病に対する治療はホルモン剤の投与だけなので多少の副作用は見られるがあとは一日中暇を持て余すことになる。佐藤さんも例にもれず、暇を持て余している様子がこちらにも伝わってくる。そんなふうに感じたのは私だけではなかったらしく、隣のベットの清水さんが佐藤さんをからかいはじめた。

「よう、最近奥さんがあんまり見えないけど だんなのいない間に浮気でもしてるんじゃねぇか。」
あまり品のいいからかい方とは言えない(からかうのに品のいい悪いのあったもんじゃないか・・・)。
「かなわないなー よしてくださいよ、からかうのは・・。」
真面目な佐藤さんは、少しかすれた声で真面目に答える。
しかし、暇をつぶすのに格好の材料を見つけ出した清水さんがそう簡単に引き下がるはずはなく
「だけどよう考えてもごらんよ、まだ結婚して5年も10年も経ってるわけじゃあるまいしさー絶対に変だよ。」
「もう嫌だなぁ清水さんは・・・。」
結局そんなくだらないからかいに佐藤さんが乗るはずもなくその場は終わりになった。もちろんそんなからかいのあったことなど奥さんが知るはずもなく、相変わらず病院に来る回数は増えなかった。

 ところがそれから目に見えて佐藤さんの様子がおかしくなってきた。なんとなくそわそわしていて落ち着かない。時々やってくる奥さんともベットの片隅で何やら小声で押し問答をしている。ある日佐藤さんが自宅へ電話をかけていたとき、それが決定的になった。
「どうして今日も病院に来なかったんだ!わけを言えわけを! やっぱりお前は浮気をしてるんだな!!。」
たまっていたものを一度に爆発させるように病棟中に響き渡る大きな声で佐藤さんは叫んでいた。

 佐藤さん御夫妻の名誉のためにはっきり書いておくが、奥さんは断じて浮気などしていなかった。御主人のいない家庭を守るために必死で頑張っていたのだ。それに御主人も服用していたホルモン剤によって、精神的にも安定していなかったと言う理由もある。しかしなんと言ってもたった一度のからかいが、その引き金になったことは火を見るより明らかなことだ。

 からかうなんてことは私達の中では日常茶飯時のことかもしれない。そして誰もがこう言うのだ『そんなの本気で言ってるわけじゃないんだから・・・。』

 でもどうなんだろう、清水さんにしたってそんなこと本気で言ったわけじゃない。ところがそんな冗談半分に言った、まるで本気じゃない言葉が佐藤さんをそこまで追い込んでしまったのだ。もしかしたら私達が軽い気持ちで言っている言葉のほうが、人を傷付けていることが多いのかもしれない。『そんなの本気じゃないよ』と自分の立場をまず確保してから、相手をからかって楽しんでるなんて なんて趣味の悪いことか。でも悲しいかな、それが大好きなのが罪深い人間なのだ。私も罪深い人間として清水さんの共犯者である。そしてこれを読んでいるあなたも。

 主は私達に塩気を保ちなさいとお命じになった(マルコ9:50)。もし私達が主によって塩気を保っているならば、私達の言葉も当然塩気のある言葉のはずだ。無味乾燥と言う言葉があるが、私達が本当に主につながっていないなら全く味の無いつまらない言葉しか出てこないだろう。主にあっていつでも味のある言葉を話していたいと切に思わされる。
「あなたがたのことばが、いつも親切で塩味のきいたものであるようにしなさい。」(コロサイ4:6a)

 さてそれからの佐藤さんであるが、奥さんが誠意ある説得を続けたおかげで少しづつその心もほぐれていき、退院する頃には以前の落ち着きを取り戻していった。それにしても佐藤さんの奥さんがしっかりした人でよかった。もしこれが感情的な奥さんだったらと思うと・・・・。もしかすると一番の被害者は奥さんだったのかもしれないな。まったくからかうなんて百害あって一利なしである。5号室の入院患者一同深く反省しています、お騒がせしてすみませんでした。

2013年11月1日金曜日

第17話 神経内科/2008.4.3

「うわー!!」
 真夜中の病院に響くには、余りにも恐ろしい断末魔のような叫び声が病室のすみのベットからあがった。驚いたのは同じ病室で寝ていた私達である。みんなが、ばっとベットから飛び起きた。「どうしたー!」と私のとなりのベットの人が、声を発した土屋さん(仮名)に向かって声をかける 今まで夜の闇の中だった病室に、光々と電気の明かりがつく。付き添いの奥さん(もう60近いと思うが)は、わけがわからずおろおろするばかり。ぴりぴりした空気が、病室に漂う。すぐに看護婦が飛んできて、さらに緊迫感を強める。だが、とうの彼は何もなかったかのようにおとなしくなっている。なーんだ、ねぼけたんじゃないか、と早とちりしないでもらいたい。つまり、彼の病気はそういう病気なのだ。

 あるときには、いきなり彼がベットの上に立ち上がった。もちろん、はっきり意識があるわけではない。あ、危ない、とみんなが思った瞬間、まるで丸太が倒れるように体を真っ直ぐにしたまま、ベットの横にずどーん・・・ 。この時も床が揺れんばかりのすごい音。怪我がなかったからよかったようなものの、同じ病室にいる者達は、彼のこの騒ぎにずいぶん悩まされたものだった。

 血液と腎臓の専門の病棟にどうしてそんな人が入院しているかって?ところが、面白いことに、西病棟の最上階である七階の、私がいた五号室に、二床だけ神経内科のベットがあったのである。広い大学病院の中で、たった二つしかベットのない、それが神経内科なのである。では、どんな人がそこに入院するかというと、原因のよくわからない病気の人、まだ難病指定さえされていないような病気の人、なのである(多分)。しかし、入院患者の目からみれば、研究用に設けられたベットにすぎない、という印象がぬぐえない。この神経内科に入院した人は、されるだけの検査をされたら、それで退院。決して治療してはもらえないのだ。もちろん、入院してくる人達はそんなことは少しも知らない。

 ある中華料理屋を経営していたまだ30代前半の人は、筋肉が萎縮していき、最後には動かなくなってしまうという病気だったが、一通りの検査をされたら治療も受けずに退院していった。このまま動けなくなっていくのを待つのは辛い、と言いながら・・・。

 また、手の皮膚に異常な染みができてしまうおじいさんは、やはり一通りの検査をされたら、病気についてなんの説明もなく、あとは自宅近くの病院でと言われて、「近くの病院じゃ治らなかったから、大学病院に来たんじゃねぇか!こんな馬鹿な話があるか!すこしぐらいどんな病気か説明してもよさそうなもんだ!。」と今にも訴えてやる、という様な剣幕で退院していった。

 こんな調子だから、神経内科に入院する患者は入院、退院のサイクルが極端に短い。どんどん患者が入れ変わっていく。私のように入院が長くなってくると、ああまたかと取り立てて驚かないが、どうにか病気を治そうと思って来られた人達にとってはたまったもんじゃないだろう。もちろん、病院の方にだってそれなりの理由はあるんだろう。もっとベットがあれば気の済むまで治療してやるさ、とか、病気を調べるためには仕方がない、などとDr.達も心では思ってるのだろう。それに、今は有効な治療がない病気だったら、どんな名医でも治すことはできないのだし・・・。

 さて、土屋さんであるが、彼の病気はどんどん進行していき、今はほとんど意識、いや、彼の場合は体はよく動くし、力もあるのだから、普通の意識がないのと少し違うが、とにかく付き添っている奥さんとも意思の疎通が出来なくなってしまった。そんなある日、一人の助教授らしき人が土屋さんの奥さんのところにやってきた。
「今度、学生達の前に御主人と一緒に出てくれませんか。その時に、御主人の様子がどんなふうに変わってきたか、説明してもらいたいんですが。」

いかにも純朴で田舎のお婆ちゃんという感じの奥さんが、依頼というよりもそうしなければならないといった口調で言われたら、断われるはずもない。多くの学生達の前で、ベットの上で寝たままの御主人を前にして、話さなければならない奥さんの気持ちは、どんなものだったのだろう。

 多分土屋さんの病気は、とても珍しい、まだ誰も有効な治療法を確立していない病気だったのだろう。だから、病院側としても色々な検査や治療をして、そして学生達にも勉強のために見させてあげたかったのだろう。あまり治療のされることのない神経内科で、まがりなりにも治療してもらえるのだから、それはそれでいいじゃないかといわれれば、それはそうかもしれない・・・ 。でも、何か欠けてるんじゃないだろうか・・・。

 主はその生涯の中で、多くの人を癒されたが、ただ病気を治されただけではなかった。現代の医学がともすると忘れがちなものを、主のお姿を見るときに思い起こさせられる。

『イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。
 「わたしの心だ。きよくなれ。」』 (マルコの福音書1:41)

第16話 御香木のお話し/2008.3.6

「むかしむかし、あるところに それはそれは美しいお姫さまがいました。」
こうして彼女の話が始まった。治療で風呂に入れなかった私が、ケア・ルームで看護婦さんの市川さんに体を拭いてもらっていた時のことだ。彼女はなかなかの美人で、隣のベットの清水さんに言わせると、病棟で1,2を争うほどである。その彼女がふと何を思ったか、体を拭きながら
「御香木の話し、知ってる?」と聞いてきた。
 知ってるも何も、こっちは“御香木”がなんだかすら分からない。
「御香木は良い香りのする木のことでしょう。」と、
まるでそんなことも知らないのという笑いとともに、彼女は話し始めた。もちろんそこはプロ、しっかり体を拭きながらである。

『それはそれは美しいお姫様でしたから、たくさんの人が彼女を恋い慕っていました。
 その中でも、彼女のことを思うと夜も眠れないほど彼女を慕っている1人の青年がいました。
 彼女の姿を宮廷で見かけるだけで、彼の心は張り裂けんばかりにときめくのです。

そんなある日のこと。
大好きなお姫様が「かわや」へ行くのを見かけた彼は大きなショックを受けました。あんなに美しいお姫様が“かわや ”に行くなんて・・・。彼は美しいお姫様は“かわや”などには行かない、と心底思っていたのです。
しばらくショックから立ち直れなかった彼ですが、流行りの歌のように♪時の流れに身をまかせ~♪ているうちにそ のショックから抜け出したのでありました。まったく人間の心とは、いかに都合良く・・・いやいや良くできているか と 感心させられることしばしであります。

さて、ショックから立ち直った彼は、一つの疑問を持ちます。
 「美しいお姫様は、普通の人と同じように“かわや”で用を足すのだろうか?・・・。」
 ある日彼は決心します。お姫様が“かわや”から出ていった後に、そっとその“かわや”に忍び込みました。
 当時の“かわや”には、広い部屋に用を足すための箱が置かれているだけのものでした。
 彼は高鳴る胸を必死に押えながら、そっと箱のふたを開けたのです。
 すると、そこには 良い香りのする一本の御香木が入っていました。』

とまあ、こんな話である。多少筆者が修飾したが・・・。 とにかく、彼女は突然御香木の話をしたのである。

「それで?」
と私は素直に聞いたが、彼女はせっかく話してあげたのに、この話の良さが分からないのかしら、と言う口調で、
「だから、美しい人は違うの!!」と一言。

落ち込みがちな入院患者を励まそうと思って話してくれたのか(それならもっと他の話しもあると思うが・・・)、それとも自分が好きな話をわざわざ打ち明けてくれたのか、まさか自分がその美しいお姫様だって言いたいんじゃ・・・。とにかく、どうも彼女の機嫌を損ねてしまったらしい。こんなことになるんなら、もっと素直に喜んでおけばよかった。彼女も彼女で、突然そんなことを話したのを少し恥じらっているようだ。
こんなときは面白いもんで、本来は看護するものと看護されるものという立場であるのだが、そんな境がふっと消える。それからは2人とも、照れくさそうに笑っていたとさ。

しばらくして市川さんは結婚をした。クラシック音楽の活動などにも参加していた彼女のことだから、相手も芸術的なことが好きで、ロマンティックな、そう、例えば御香木の話しなども「それで?」などと聞くような、野暮な人ではなかったのだろう。
めでたし、めでたし。

第15話 学生小島/2008.1.28

「これから一週間、お世話をさせていただきます。学生の小島です。」

 彼女はそう言って微笑んだ。大学病院では、看護学生の実習として付属の看護学校の三年生がやってくる。三年生は最上級生であるから、実際の現場に出て、本物の患者さんと接し、より実際的な経験を積み、卒業に備えるわけである。とくに私のような病気の患者は、格好の対象らしく、私自身も大学病院にいる間何人もの看護学生さんに身の回りをお世話してもらった。いやお世話させてあげたと言ったほうが正しいとは思うのだが・・・。
 なにしろこの看護学生と言うのがくせもので、注射をさせようとすれば腕はぶるぶるふるえるわ、ちょっと痛い検査に立ち会ったりすれば、顔をゆがめて患者を不安におとしいれるわとなかなかに手強い。

 さて、今回私の担当になった小島さんは、そんな不安を与えるような人ではなく、看護も堂々としていて、こちらも安心して任せておくことができる。おまけに飛び切りの美人ときている。どのぐらい美人だったかというと、同室の高橋君が一目惚れしてしまい、隣のベットの清水さんは
「あれ可愛いねぇ。」
と溜め息をもらしたほどの美人である。

 もちろん私だってそんな美人に看護してもらって悪い気がするはずもない。沈みがちな病院生活に突如として見目麗しい白衣の天使が舞い降りてきたのだ。いつもは早く退院したいと思っているくせに、こんなときには入院していて良かったとすら思うのだから、全くもって始末におえない。

 もとい。それから数日間、看護を受けながら小島さんと色々なことを話した。私がクリスチャンだということも、彼女が私と同じぐらいの弟がいること、どうして看護婦になろうとしたのかなど、話題がつきることはなかった。

 そんなある日、私が歯科の検診に出かけることになった。私の病棟は七階、歯科は二階である。私を車椅子に乗せて、小島さんがエレベーターに乗り込む。二階に着いてエレベーターを降りると、そこから長い廊下が続いている。秋から冬へと変わり始めているひざしの中を小島さんが押す車椅子がゆっくりと進んでいく。二人ともいつ終わるともない長い廊下の先の方を見ながら、しばらく雑談をしていたが、ふと話が一瞬途絶えた。

とその時、小島さんが
「多胡君がこんなふうに病気になっても、明るさを持っていられるのは、
 やっぱり多胡君がクリスチャンだからかな・・・ ・。」
と普段の明るい声で、しかしはっきり何かを感じさせる言い方で、私の肩越しに聞いてきた。いきなりの質問にあわを食ってしまったのは私のほうである。
「えっ・・・・。」
とほんの一瞬 間をあけてしまった。

 自分がクリスチャンだから明るいって?クリスチャンだからこんな状態でもいられるって?はたして本当にそうなのだろうか。今までそんなこと考えたこともなかったな・・・。いや、クリスチャンだから明るいっていうのは間違いじゃないぞ、うん。クリスチャンがどんな困難に置かれても平安があるっていう証しもたくさん聞いた。でも、自分はどうなんだろう。こういうときに限って、あ あのときのあの罪、あ あのときはあんなことをしてしまったなぁ・・・なんてことばかり思い出す。それにしても、車椅子の肩越しなんて、ずるいなぁ・・何てったって顔が見えないんだもの。相手の反応がわかりゃしない・・・。

「うん、でも自分はいい加減なクリスチャンだから・・・。
 私なんかよりちゃんとしてるクリスチャンの人はたくさんいるし・・・。」
 なんと情けない、これが私が小島さんに言った答えであった。そうです!私はクリスチャンだから、このような状況でも喜んでいられるんですよ、と胸を張って言えなかったのである。こんなふうにしか言えなかった経験のある人は少ないだろうと思うが、半分は本当に自分のいい加減さを思い、そしてもう半分は自分がそんなふうに見られていることが本当に主の力かどうかはっきり分からなかったというのが正直なところだ。いやもしかするとただ責任逃れをしたかったのかも知れないな。とにかく私は小島さんの問いに対する答えを持っていなかった。

 私に目を留めないで、主に目を向けてくださいとはよく聞く言葉である。しかし私を見て、私のうちにおられる主を見てくださいと言えなければだめだと言う言葉も聞く。どちらももっともな意見であり、本質的には違いがないと思うのだが、なかなかそのバランスをとっていくのは難しいことだと思う。もっとも私のように自分を見てしまっていたのではそれ以前の問題だけれど・・・。

 一週間の研修が終わり、小島さんも他の病棟に移っていくことになった。最後に小島さんが
「日常生活について 学生小島」と題した手作りのノートをくれた。そこには十数項目に及ぶ日常生活における注意が書いてあり、そして最後にこう書いてあった。

「以上のようなことに気を付ければ、あとは普通に生活ができます。
 多胡君スマイルで元気いっぱいです!」
・・・なんだかずいぶん色々なことを考えさせてもらった小島さんとの出会いであった。

第14話 片腕の少年/2008.1.10

 私の入院していた西混合病棟七階から、エレベーターで一階まで一気に降りると、そこから大学病院の中で一番長い廊下がのびている。エレベーターを降りると、すぐレストランがあり、ついで外科病棟への入り口がある。それから売店があって、他の病棟に行くバイパスがある。そして、放射線科があり、外来へと続き、おもてに出る。ざっと100メートル以上はあろうかと思われる。

 治療と治療のあいまの比較的からだが楽なときに、私はエレベーターを降りてすぐのところにある自動販売機にでかけては、コーヒーを一杯飲むのが好きだった。自動販売機のかたわらにある長椅子にすわって、熱いコーヒーを飲みながら行き交うたくさんの人を見ていると、そこには病室の中にはない人間の動きが感じられた。病室の中と外の世界とでは、全く流れている時間が違う、同じ一つの世界の中にあってどうしてなのだろう。

「ばかやろう。!」
 私のそんなセンチメンタルな考えをその声はぶち破った。すわ何事か、と思って声のするほうに目を向けると外科病棟の入り口にある公衆電話からであった。まだ中学生ぐらいだろうか、やせている少年だった。とにかく言葉遣いがひどい。話の様子から見るとどうも家族の、それも両親と話しているようだったが、けんかでもしているようである。内容は彼の両親が今度病院に来るときに持ってきてもらいたいものについての話だったようだが、あれぞ罵声という言葉遣いだった。しかも叫ぶように大きい声で話しているので、回りに響く響く。廊下を行き交う人もなんだこいつは、という目で通っていく。

 よく見ると彼には左腕がない。中学生ぐらいで、外科病棟に入院していて、しかも片腕がない。髪の毛も抜けてしまっていて、帽子をかぶっているのは多分薬のせいだ。となれば、おそらく彼の病気は骨肉腫のような病気なのだろう。まだ中学生ぐらいの若さで、思ってもみなかったような病気によって片腕を奪われてしまったその気持ちは、いかばかりのものか・・・。その気持ちが、両親にむかってのあの厳しい、そして激しい言葉になって出ているのだろう。その言葉を聞かれている御両親の気持ちも、これもまた言葉に表わすことのできない切なさであったろう。なぜなら、強く叫ぶようなその声は、こう言っているようにしか聞こえなかった。
「なぜ俺を産んだんだ!なぜ片腕を切り取られなければならないような体に産んだんだ!
 何で俺は生まれてきたんだ!」と。

 そしてその声は、私に向かってもこう言ってきた。
「神がいるなら、なんで俺はこんなふうに生まれたんだ!」と。

 私はその声に対する答えを、そのとき持っていなかった。私だって、他の人から見ればあの少年となんら変わらない状況なのだ。髪の毛は抜け落ち、病気もこれからどうなるかわからない。どうしてそんな痛みを。どうしてこんな苦しみを。

 もちろん、今すぐに簡単に答えを出せる質問ではないのかも知れない。すべてのことは天の御国に行かなければ、わからないことだ。もちろん、一人一人の様々な状況にあった対応を神はしてくださるはずだ。ただ今は、一つだけ、彼にこう言えるだろう。それは、生まれてこなければ、私達はキリストに出会うことはなかった、もし生まれなければ、私達は永久にこの素晴らしい御方とめぐりあうことは出来なかったのだ、ということを。

 どんなに苦しくても、その状況が理解できない理不尽な痛みに満ちていても、生まれてきたことによって、私達はキリストに出会うことができるようになったのだ。それは、生まれてこないことにくらべたら、御自分の命をかけて、愛してくださる方に、めぐりあえないことに比べたら、素晴らしいことではないだろうか。私たちは生まれたことによって、このお方とめぐりあえるチャンスをいただいたのだから。
あなたにいのちが与えられたのは、愛されている証拠なのだから。

「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。」(聖書 ヨハネ15:9)

この聖書の言葉を覚えてほしい。
神は私達を被造物の最高のものだから、創られたものの中で一番良いものだから愛する、という愛ではなくて、父なる神がイエス・キリストを愛されたように、同じ愛で愛してくださるのである。

2013年10月31日木曜日

第13話 真夜中の退院パーティー/2007.12.1

明日は高橋君(仮名)の退院の日だ。その最後の夜、5号室の仲間で高橋君の退院を祝おうということになった。今まで色々な人が退院していったが、皆で退院を祝おうなどということになったのは長い入院生活でも高橋君が最初で最後だった。もっともいなせな大工の清水さんと長老の私が勝手に決めてしまったようなものだが・・・。

 もう時間は9時を回っている。消灯時間は過ぎてしまっているので部屋の明かりを消して、それぞれの読書灯をつける。明かりがもれないように部屋のドアはしっかり閉め、静かに7階から1階の自動販売機にジュースを買いに走る。それぞれがお見舞いにもらったお菓子などを出し合い、ジュースが到着して準備OK、パーティーの始まりだ。みんなから色々な思い出話が出てくる。みんな共に病気と戦った仲間なのだ。

 高橋君は腎臓の検査値に異状が認められたので、精密検査のために入院になった。腎生検という腎臓の組織の一部を取る検査を行ない、一週間ぐらいベットから動けなかったのでみんなとコミニュケーションをとりずらかったが、動けるようになったらすぐにみんなに打ちとけ、可愛がられた。結局これといった病名が分かったわけではなく、引き続き経過を見ていきましょうということになり今回の退院になったわけである。

 ときどき看護婦が夜の見回りにやってくる。ドアを開けて中をのぞいたら、寝ているはずの病人達が飲めや歌えの大騒ぎ・・・もとい みんなでジュース片手にワイワイやっているではないか。しかし「消灯時間はもうとっくに過ぎてるでしょ、早く寝なさい!」とは言わない。みんなに異状がないのを確かめて帰っていく。決してパーティーをしていることを責めたりはしないのだ。そのかわり我々も大きな声を出したり、明かりを光々とつけたりしないでいるのだ。(部屋の明かりがついていると管理室から病棟に電話がかかってきて、看護婦が注意される。)
お互いに持ちつ持たれつの麗しい関係である。

 「なんだか退院したくないなー。」と高橋君。考えてみればおかしな発言で、入院生活などは長くするものではない退屈な日々のはずだ。ではなぜ高橋君はそんなことを言うのだろう。いや実を言えば高橋君だけではなく、他の人も同じ様なことを言って退院していく。そしてなんとなくではあるが私もその気持ちが分かる一人なのである。どうしてだろうと考えてみる。勉強や仕事から開放されるから?美人の看護婦さんに二十四時間世話をして貰えるから?注射や薬が大好きだから?どれも当たらずも遠からずといったところだろうか。
 あるいは入院患者の間にお互い病気を抱えた病人なんだという意識が知らぬ間に働いているのかも知れない。ここに入院している人達は ある人は銀行員、ある人はラーメン屋の主人、またある人は大工、会社員etc・etc・・・。全くの他人の集まりなのだから、衝突などは当たり前、相手のことをよく理解するのも難しい、普通だったらバラバラになってしまうだろう。ところが実際はどうかといえば、危ないながらもなんとかやっていっている。もしかしたらお互い病気のある病人なんだという意識が、どこかでブレーキを掛けるのかも知れない。そしてそこに普通の集まりとは違うということを感じとるのだろうか。相手と自分が同じ立場だというところに安心するのかも知れない。ふっと私達と同じレベル、同じ立場になってくださった主を思い出す。
しかしなんだかんだといろいろ考えてみたが、結局名解答は得られるはずもなく、パーティーも終演に近付いていくのであった。

 次の日の朝、つまり高橋君の退院する朝、私と高橋君でかねてから計画していたあることを実行に移すことになった。今日を逃せば高橋君は退院してしまう、二人にとってラストチャンスである。その計画とは、退院する前に1階にあるレストランへ行ってラーメン・セットを食べようというものだった。

 たかがラーメンと笑うなかれ、いつも病院食の入院患者達にとってラーメンは恋慕う対象であり、離されれば離されるほど思いの募っていくものなのだ。まるでロミオとジュリエットのように。

 もとい、いよいよ決行である。エレベーターで1階に降りるとすぐにレストランがある。夜勤明けの看護婦やドクターのために朝7時ぐらいから営業されている。勇んでレストランに入り、セットメニューはトーストとラーメンの2種類と確認、意気揚々と「ラーメン・セット2つ!」と注文した。ところがけげんそうな顔をした店員のおばさんが一言「ラーメン・セットは十時過ぎからなんですけど・・・。」

 うーむ、しかし冷静になって考えてみれば当り前で、朝っぱらからラーメンを食べてやろうなんて輩はさほどいるはずもなく、広い大学病院の中でも私と高橋君だけだったらしい。
このまま帰るのもしゃくにさわるので、動揺とショックを隠して、いかにも平静を装い、「じゃ、トーストのセット2つね。」と食べたくもないトーストのセットを注文するはめになってしまった。
ロミオとジュリエットのように、私達とラーメン・セットもついに結ばれなかったのである。

 お昼過ぎ、高橋君は元気に退院していった。高橋君は、高校1年生。その時高3だった私にとっては、半年近い大学病院への入院中唯一の同年代であった。

第12話 病室のバレリーナ/2007.10.9

その娘(こ)と初めて顔を合わせたのは、私の退院もまじかに迫ったある冬の日だった。彼女のことは前から知ってはいたが、お互いの治療があったり、私は大部屋、彼女は個室ということもあって、顔と顔を合わせたことは今までなかったのだ。いつも彼女に付き添っている彼女のお母さんの招きで、初めて彼女の病室に足を踏み入れた。彼女は私より一つ年上で、当時十九歳。入院してからもう一年に近づこうとしている。高校を卒業後、専門学校に入学、その直後入院になったのだという。

 彼女のお母さんは年令よりもずっと若く見えて、ほとんどの人がお姉さんが付き添っていると思っていたほどだ。このお母さんの笑顔は愛敬があってとても好きだったのだが、一度愛敬を通り越して“ドキッ”とさせられたことがある。

 私のベットの枕元は、同級生やら教会の人やらにもらったお見舞いのぬいぐるみでいっぱいだった(何でそんなことになったかは、よくわからない・・・)。そしてまた新たに同級生が新しいぬいぐるみを持ってきた。緑色の恐竜のぬいぐるみで、背中のこぶを使って輪投げをして遊ぶことができるようになっている。入院していてたいした楽しみもない中にあって、その恐竜の輪投げぬいぐるみは、まさに突如として現われたヒーローとなったのである。
 かくて入院患者だけでなく、看護婦、補助婦、はてはお見舞いの人や医者まで巻き込んでの大輪投げ大会が始まった。みんな盛り上がって、笑ったり、拍手をしたりしていたその時、「何やってるの?」と彼女のお母さんが顔を出した。
「あ、うるさかったですか?」と私が聞くと、
「いえ、あんまり楽しそうな声が聞こえるので、何やってるのか娘に見て来てって言われたのよ。どうぞ続けて。病棟の雰囲気が明るくなるわ。」と言ったその後に
「今度は娘も仲間に入れるように元気になるから。」と言って微笑んだ。
その微笑んだ顔は、深い苦しみと戦っている人だけが作れる強さと悲しみが見えたような気がして、私は思わず彼女の顔をじっと見つめてしまった。

 娘を治したい、ただそれだけが彼女の支えだったのだろう。私の病気がリンパ性の病気だと知って、娘も同じだからとしつこいぐらい私の治療や様子を聞いてきたこともあった。それもこれもみんな、娘を元気にさせてあげたい、また普通の生活をさせてあげたいという心からだろう。いつの日か病気を完全に克服した娘の姿を心に描くことで、この母親はここまでやってきたのだ。

 彼女の病室は冬の陽射しで満たされていた。その光が差し込む窓辺に、一枚のパネルが立てかけてあった。
「これ娘なんですよ。」とお母さん。
そのパネルには、真っ白なドレスを来てバレエを踊っている彼女の写真が入れられていた。
「今はこんなだけどね。」と彼女。
治療のために髪の毛は抜け落ち、顔はパンパンにむくんでいるその姿は、パネルの中の彼女とはあまりにも対照的で、そして彼女の病気の重さを物語っている。
「また元気になってバレエするんだよね。」と彼女のお母さん。
「そうだよ、がんばらなきゃ・・・。」と私。
私のそんなありきたりの、あまり思いやりがあるとは思えない言葉に静かに微笑む彼女。治療もあまりうまくいかず、何度も何度も薬や治療の方法を変えたりしてはいるのだが、副作用だけが増えて肝心の病気のほうは一向に良くなる気配はない。そんな状況なのに、彼女の瞳はまだ完全に輝きを失っていないように思えた。それはきっと、もう一度スポットライトを一身に受け、舞台の上を自由に踊る日を心に描いていたからだろう。彼女にとってそれは大きな支えだったのだ。

 聖歌の中にも病にある娘がいる。バレエが入院していた彼女の支えだったように、聖歌の中の彼女の支え、それはイエス・キリストであった。多くの人とベットをならべ、また共に病気と闘った私にとって、聖歌の中のこの彼女の姿は深い感動をもたらしてくれる。歌詞からすると、彼女の病気は、もはや治る見込みのない病気だったようだ。しかし彼女の持っていた希望、彼女を支えていたものは、いつの日かかなうかもしれないというようなものではなく、今現実に彼女を満たし、喜びにあふれさせていたのだ。その微笑みはどんなに素晴らしく、そしてたくさんの人を慰めたことだろう。

『病の床にて 主の召したもうを 待つ娘よ
 なにゆえ 望みに 輝き微笑む
 語り告げよ
 イエスは 我のすべてなれば
 イエスは 我のすべてなれば』  (聖歌473

第11話 蒼い月影/2007.9.28

「トマト食べるかい?」
 一階の売店で買ってきたばかりのトマトを私のほうに差し出しているのは三十代半ばぐらいの松山さん(仮名)だ。松山さんは私が転院してきたときには、もう入院してから一年近く経っていて、そろそろ入院二年目に入ろうかというところだった。さすが病院暮らしが長いだけあって、転院してきたばかりの右も左もわからないで困っている私にいろいろ教えてくれた。
「小学校三年になる娘がいるんだけどさー。」
一人娘のことを話す彼の顔は、自然と笑みがこぼれ、優しい顔になる。
ところが、そんな彼が同室の患者からあまり良く思われていない存在であるというのに気が付くまで、それからあまり時間はかからなかった。

 彼がトマトやその他の食べものを買ってくるのは、とりもなおさず病院の食事をあまり食べないからなのだ。
この松山さん、食事の時は「こんなものまずくて食えねぇよ。」とぶつぶつ言いながら、好きなものだけ食べ、あとはほとんど残す。最初のうちは変わっている人だと思う程度だったが、こちらも治療が始まり食べられない食事を無理してでも食べようとしているのに、
「何でこんなまずいもん出すんだ!」
「おらぁ、これは食べられないんだって、あれほど言ったじゃねぇか!」
などとすぐ側で言われれば、食べる気も余計に失せるというもんである。あまりにうるさいので、同じ部屋に入院していた人が
「一生懸命食べようとしている奴もいるんだから、文句ばっかり言ってんじゃねぇ!」
と怒鳴り上げたぐらいである。いつもこんな調子では、嫌われるのも当たり前である。

 良く思われていないのは、何も同室の患者だけではない。彼は看護婦からもあまり良く思われてはいなかった。もちろん看護婦の人達は職業なのだから、あからさまに差別するとかそんなことはないけれど、そこは人間、いつも文句と愚痴ばかりでは、嫌になるのも仕方がないことだ。

 そしてもう一つのことに気が付いた。彼と共に数か月間同じ病室で過ごしたが、その間彼のもとにお見舞いはもとより、家族すらやってこない。ちらっと聞いた話しによると、どうも入院する前から、職場でも、家庭においても、不平不満ばかりだったらしい。一度だけ奥さんが病院に来たことがあるが、お見舞いなのか、愚痴の言い合いなのかわからないような、そんな状態だった。もちろん、彼の自慢の娘さんも一度も来なかった。もっとも病院に来るために電車を乗り継いで来なければならないような遠いところに住んでいるのだから、誰かに連れてきてもらわないかぎり、小学校三年生の女の子が一人でやってくるのは難しいだろう。それに電車賃だってもらわなければならないし・・・。

 彼の病気は、急性リンパ性白血病。数年前に発病し、一時寛解にまでいたったが再発、そして今の入院になった。それからの病状は一進一退で、私が大学病院に転院してきた時分には、だいぶ落ち着いた状態であった。しかし、確実に彼の体の中では病気が進行していたのだ。ある日を境にして、病魔はその牙を剥き出し始めた。坂道を転がり落ちりボールと同じで、あとは勢いがついてゆくばかり、病状はどんどん悪化していった。

 白血病は進行すると、とても激しい痛みが全身を襲う。松山さんもあまり痛がるので個室に移されたが「いてぇ、いてぇ」というなんとも言い様のない哀れで悲しい声は、個室に移されても、変わらずに病棟に響いていた。あまりの痛みに、彼は手首を切って自殺を計ったが、病院での自殺は多少無謀だったらしく、すぐに発見され、彼の病室には監視用のテレビモニターが設置された。ところが、こんな状態になっても、誰も彼の元に来ることはなかった、友人も、家族も。一番痛みを和らげるであろう娘さんも・・・・ 。

 そんな日が何日か続いたある日、それまででは考えられないことに、松山さんの家族、親族の人たちが大挙して病院にやってきた。それはよかったと喜びたいところだが、入院している者の家族・親族が集められるということは、どんなときかということぐらい、すぐに想像がつく。数時間、待合室にタバコの煙が漂い、病室と待合室の間を行き来している人影が絶えなかった。外はすっかり陽が落ち、夕闇があたりを包み始めている。七回の病棟から見える街の灯が輝きを増していく。病状は一進一退が続いているらしい。

 夕食を済ませた私は、何気なく夜景でも眺めようと、ぶらぶらと待合室のほうに出ていった。松山さんの親戚の人たちは病室のほうに行っているらしく、人影は見当たらなかった。ふと待合室の長椅子に目を落とすと、一人の少女が長椅子に眠っている。よほど疲れているらしく、私が来たことなどまるで気が付かない。どうしたのだろう、ぐっすり眠っている彼女の幼い頬に、涙の跡がくっきりとついている。
「あっ・・・・」
思わず声を上げそうになった。その子の体操着の胸元には「松山」と書かれた布が縫い付けてあった。その子はまだ小さい松山さんの一人娘だったのだ。その涙の理由は簡単に想像できた。大人たちの勝手な理由で、お見舞いにつれてきてもらうこともできず、やっと会えた父親はいままさに死のうとしている。大人だって耐えかねる状況だ。どんな父親であろうと、彼女にとっての父親は世界でただ一人なのだ。会いたかったんだろうな・・・・、お父さんのこと好きだったんだね・・・・。お父さんはきっとそのことを知っていたから、君のことをうれしそうに話したんだろうね・・・ 。
彼女が目を覚ましたら全部夢だったらどんなにいいだろう・・・。

 言いようのない怒りとやるせなさが込み上げてくる。そこに居続けるのが何ともつらくて、そっと病室に引き返した。それから間もなく、松山さんは亡くなった。

 その夜はとてもきれいな月夜だった。何だかすぐには眠れない気分で、もう寝静まった病室の自分のベットに座り、蒼い月と星を見ていた。人の心とは何と冷たいものだろう、あんなに小さい少女さえも平気で傷つける。彼女の涙に濡れた寝顔が浮かんでくる。

 その時、一つの考えが彼女の顔を吹き飛ばした。松山さんがグチを言い、不平不満をこぼしていたときの私の心は、松山さんの親族の人たちといったいどこが違っていたというのだろう?病院のことをいろいろ教えてくれたことも、トマトを差し出してくれたときのことも、すっかりどこかに消えてしまって、不平をこぼす彼をただただわずらわしいと思っていたのではないか。何のことはない、あの小さな女の子をあんなに悲しませたものが私のうちにある。誰のせいでもなかったのだ。私のうちにあるものが、彼女をあんなに悲しませたのだ。

 一つの御言葉が心に響いた。
「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。
 たとい、女たちが忘れても、この私はあなたを忘れない。
 見よ。私は手のひらにあなたを刻んだ。」  イザヤ49:16

 血のつながり、とりわけ親子の絆は切れないはずのものだ。
だが、たとえその絆が切れたとしても、決して忘れない。御言葉がずしんとくる。
十字架でイエスの手のひらに刻まれた釘の跡は、私を刻み込んだ傷跡なのだ。
月は相変わらず静かに夜空をめぐっていた。

第10話 お見舞いについて考えよう/2007.9.6

ポーカーフェイスを辞書で引くと、「ポーカーで手のうちを悟られないように、顔の表情を表わさないようにしたことからこう言われるようになった。感情の起伏を表わさない人。無表情な顔。」と書いてある。

 渡辺さん(仮名)は、まさにこのポーカーフェイスを持っていた人である。渡辺さんは某銀行本店の部長クラスの人で、社交上においてはまさに百戦錬磨、人に接するときの物腰の柔らかさは、まさに銀行マン。そして、人を誉めるときも、意見を述べるときも、常にポーカーフェイスを崩さない。うれしくても悲しくても、すぐ顔に出てしまい、周りの人に簡単にばれてしまう私などとは大違いである。

 渡辺さんの病気はネフローゼ。腎臓の病気である。健康な人の尿には、蛋白質がそのまま出てくることはないが、疲労が高じたり、体調が悪いときには出てくることがある。これをたんぱく尿といって、この際たるものがネフローゼである。私の病気のように、強い副作用を伴う薬などは用いないので、気分が悪くなるようなことはないから、入院していても手持ちぶさたにしていることが多い。

 さて、今回の本題である。私がまだ治療の副作用で苦しんでいたとき、クリスチャン仲間が一度にたくさんお見舞いに来てくださったことがあった。ちょうど夕食時で食事が配られた頃だったろうか、全員が病室に入ることは大変なので、2~3人の組になって、一組5分ぐらいで、入れかわり立ちかわりのお見舞いになった。せっかく来てくださったのだからいろいろと話したいが、いかんせん気分が悪い。どうにか作り笑顔を浮かべて、一組また一組とやり過ごす。
やっと全員のお見舞いが終わり、ベットに横になりふっーと大きな溜め息をついたその時、渡辺さんがつぶやくように
「クリスチャンて思いやりがないねぇ。」とひとこと。
 普段具合の悪い私を見ているから、無理をしていることがわかってそう言ったのだろうが、礼儀のかたまりのような人に、しかもポーカーフェイスで話された日には、こちらに返す言葉もない。

 だが、私はその時渡辺さんの意見を素直に聞けたのである。そんなことはないんです、みんな心配して来てくださったんですよ、と思う反面、その通りだなという思いも正直あったのである。来てくださった方々を責める気などまるでないし、その人たちだけに責任があるなどとも思っていないが、その通り思ったのだから仕方がない。

 お見舞いに寄って励ましたいという思いと、大変だろうから少しお見舞いはひかえようという判断は、とても難しいものだと思う。私の乏しい入院経験では、入院してすぐというのはうれしい反面、患者さんにとって負担の多い場合が多い。考えてみれば当たり前で、具合が悪いから入院したのであって、入院してすぐ具合がいいはずもない。それに入院が長引けばだんだんお見舞いも減っていくが、そういうときにしばしばお見舞いに来てくれる人ほどその人のことを思っていてくれている人が多いように見受けられる。もっとも仕事や学校の都合があったり、退院するまでに一度でも顔を見せておかなければまずい、というような社交場のこともあるだろうから一概には言えないが・・・。

 それに食事どきもいただけない。だいたいこちらが食べているのをじっと見られていたら気持ちのいいものではない。それに大部屋などの場合、みんな食べているのに自分たちだけが話をしていれば、周りの人も食べづらいだろうし、こちらの話しも全部つつぬけである。できることなら、なるべく食事時を避け、患者さんが休憩室や面会室に出ることができるならば、そちらに出て話をしたほうがいいように思われる。

 とにかくお見舞いに来る人たちのチェックは大変厳しく行なわれる。一日中ベットの上にいて、暇を持て余しているわけだから、お見舞いに来た人の人間観察などはいい暇つぶしである。態度の良い人、悪い人というのは必ずその人たちが帰った後で病室の話題にされる。われらクリスチャンにとっては、なかなかに厳しい場所であるが、よくよく考えてみればとても良い証の場なのだ。なぜなら黙っていてもこちらをじっと見てくれているわけだ。こんなに注意して観察されるなんて、そうめったにないことだ。そこで良い証をすれば、その人が帰った後の病室で
「あの人は親切な人だ。」
「しっかりした人だ。」などと評価され、
「あの人教会の人?」となるわけである。
もっともこんな調子でうまくいくことはほとんどないけれど・・・ 。
それに証は自分でしようと思ってできるものではないので、結局はその人の信仰の歩みにかかってくるわけで・・・。
うーんお見舞いもなかなかにむずかしい。

 さて渡辺さんであるが、その後順調に回復して退院していった。きっと今でも、そのポーカーフェイスを駆使してひょうひょうと銀行界を駆けめぐっているのだろう。そうそう、大事なことを書くのを忘れたが、お見舞いに来る人たちはもちろんだが、誰よりも一番見られるのは入院している本人自身、つまり私だということを。
渡辺さんとは一ヶ月半ぐらいベットを並べたわけだが、
「クリスチャンて思いやりがないねぇ。」
と言った彼の心が、私の入院生活を見て変わったかどうか・・・・残念ながら定かではない。
入院するものなかなかにむずかしい。

第9話 いのちの輝き/2007.9.4

 中山さんは(仮名)少しどもる。
年の頃は三十代後半から四十代前半、寝たきりで長くいたらしくて、歩く力がなく、立ち上がるのがやっとではあるが、普段はベットの上に上半身を起こして皆と話したりと元気だった。何でも数年前に大きな病気をして命も危なかったのだが、奇跡的に回復したそうだ。どもるようになったのは、その時の後遺症で、一時は話すことすらできなかったが、懸命のリハビリでどもりながらも会話できるようになったと話してくれた。ポッチャリとした中山さんの顔と、どもった話し方が妙に合っていてなんとも可愛かったりする。

 中山さんには、奥さんと高校生と中学生の二人の娘さんがいた。奥さんは2~3日に一度は病院に顔を見せて、回りから見ても仲の良い御夫婦だった。私は中山さんとは同じ病室だから当り前だが、奥さんとも何度か話したことがある。

あるとき
「主人がいつも多胡さんのことを偉い偉いって言っているんですよ。」と言われたことがある。
もちろん、私の信仰が素晴らしいからではなく、厳しい治療にどうにか耐えているのを見てそう言ってくれるのだろう。だがそう言われて悪い気はしない。
「いえいえ、そんな・・・。」
などと両の頬がしっかり緩んでいたりして、我ながら情けない。しかし私よりも中山さんのほうが(彼の言葉を借りれば)偉いはずだ。働き盛りで、しかも一番お金のかかる時期の娘さんが二人もいるのに、動かぬ体に、そしてゆっくりとしか効果の表われてこない治療にじっと耐えているのだ。中山さんも奥さんも決して人をうらやんだりせず、むしろこんな私のようなものさえも誉めてくださる、しっかりと地に足を付けて歩いていらっしゃる方達なのである。

 ある日、中山さんが急に熱を出し、それからの日々は熱が上がっても下がることはなかった。御主人の具合が悪くなった日から奥さんは毎日、それこそ朝早くから消灯過ぎまで熱心に付き添っていた。これでは奥さんのほうが倒れてしまうのでは、と思ったが、奥さんは明るさを失わず、本当に愛し合っている姿が、おだやかさがお二人の姿にはあった。

 一か月以上も高熱が続き、中山さんの具合はさらに悪くなり、個室に移されることになった。
個室に移される日の朝、奥さんが
「また良くなってこの部屋に戻ってきますから。」と微笑んだ。
その屈託のない笑顔が、とても強く心に残った。その次の日、中山さんは亡くなった。

 数日後、中山さんの奥さんが病棟にあいさつに来た。
「どうもお世話になりました。」
病棟の薄暗い廊下ですれちがった私に、中山さんの奥さんは深々と頭を下げた。その後ろ姿を見送って病室に戻った私に、隣のベットの人が私にこう耳打ちした。
「中山さんは数年前に病気になったときから、いつ亡くなってもおかしくなかったんだって。今までよくもったって奥さんがさっきそう言ってたよ。」
 正直言って驚いた。助かる見込みがないと分かっていながら看病していらっしゃる人は、それこそごまんといるだろう。病院では日常茶飯時のごくごく当たり前のことのはずだ。だが私も私の隣のベットの人も、その事実にひどく驚いたのである。一つには中山さんがなくなる数週間前までは、とても元気で回りのものが見てもゆっくりだが良くなっているという感じがあったことと、そしてもう一つは中山さんと奥さんとの関係が実に自然で、うるわしい夫婦の輝きを持っていたからである。

 それから数年たった定期入院のときにこんなことがあった。やはり御主人が入院し奥さんが付き添っていらっしゃる御夫婦がいた。御主人が検査で病室を空けたとき、
「主人はどんな病気かもはっきりわからないんです。」
と涙でかすれた声で話してくれた。その時、ふと中山さんの奥さんのことが頭に浮かんだ。あの輝いて見えた姿の裏にも多くの涙が流されたのだろう・・・・・。あれほど愛し合っていた二人も、輝いていた二人も死の暗闇の中では輝くことができなかったのだ・・・・。

まばゆいばかりの輝きを持ちながら、それをご自分から捨てた方がいる。
「彼にはわたしたちが見とれるような姿もなく、
 輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。」イザヤ53章2節
神のひとり子でありながら、その姿を捨てることができないとは考えずに、その栄光に満ちた、輝きに満ちた御座を捨て私達と同じようになられた方。
「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。」ヨハネ 1章4節
私達クリスチャンははそのいのちを受けるものになったのだ、死の暗闇の中でも輝くそのいのちを。
「わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」ヨハネ10章10節

第8話 一時治療終了/2007.9.1

4週間。一口に4週間といっても私が経験した中で一番長い4週間だったろう。強い治療と副作用との闘いに明け暮れ、一日一日が過ぎていくのを指折り数える。まさにそんな毎日だった。

 治療も半分を過ぎた頃、トイレに行こうとしてようやくベットから起きあがって、絶えず何かにつかまりながら廊下を歩いていくのだが、フラフラするわ、心臓はドキドキするわで一苦労だった。用を足して帰るときには、来たとき以上にフラフラして、だんだん目の前が真っ白になっていく。この感覚は、例えば・・・、そうテレビの画面を思い出していただきたい。テレビに病院の廊下が写っている。画面の上下左右からだんだんと白くなっていって、ついには全部白くなってしまう、こんな感じである。ああ、これで気を失うなと言う考えが頭の中をよぎって、ドサッと廊下に倒れ込む。そこをたまたま通りかかった医者が「どうした?」と声をかけても返事がない。あわてて脈をとり、かつぎ上げてベットに運ばれるなんてこともあった。しまいにはトイレには車椅子で行く、しかも大の時だけ、なんて制限もされたりして。余談だが、私が車椅子を呼ぶということは、トイレに行くんだなということを皆に言っているようなものだ。車椅子でトイレから帰ってきて、「気持ちよかったか」「トイレはいいだろう」なんて まるで舞台役者に声をかけるようなかけ声が飛んできて、恥ずかしいやら 照れるやら・・・・。

 とにかく、こんな調子で最初の4週間の治療が過ぎていった。それは1ヶ月ちょっと前の私には全く想像できない日々だった。治療効果は驚くものだったらしく、著しい病状の改善が見られたらしい。白血病の治療に使われる薬は多種あり、またその組み合わせによってさらに多様になる。体質との関わりもあり、なかなか効果の上がる薬にめぐり会わない人もいるというのに、自分の場合は最初から、しかも白血病治療の薬としては非常にベーシックなものでとても効果があったというのだから、不思議としか言いようがない。

 入院した頃は半袖一枚で良かったのに、いつの間にか長袖のパジャマを着ている。同級生の間では就職や進学の試験を受けた、なんていう話しもチラホラ出てきた。高3の秋である。経理の専門学校に行こうとしていた私は、ああこれで経理の学校はダメだろうなぁという、いたって軽い意識しかなかった。それよりも卒業できるかどうかが問題だった。入院が長引けば出席日数が足りなくなる。高卒ぐらいの学力は、というより高卒という肩書きぐらい持っていないと、という思いの方が正直だろう。

 いろんな思いが頭を巡る。はっきりとわかるのは、カレンダーがめくれたことと、細くなった腕と足。
 こうして一時治療は終わった。

第7話 神様がくれた特等席/2007.8.31

治療も2週間を過ぎた頃、ひょんなことから1号室から5号室に移されることになった。何がひょんなことなのかといえば、本当は5号室に入るはずの人が、どこをどう間違ったのか1号室に入院してきてしまったのだ。それに気づいた婦長があわててその人に「5号室に移ってくれ」と話したのだが、「せっかく荷物も片づけて落ち着いたのだから動きたくない」と、だだをこねる。そこでしつこく頼めば、イヤという勇気など持っていないだろうという私に矛先が向いたわけだ。別に私が移らなくても1号室のベットはまだ空いているのだが、急な入院などのために空けておかなければならないのだろう。もちろん、その時はそんなことがわかるわけもなく、仕方なく移ることに同意したのだが・・・。

 5号室は1号室と違って、太陽の光がさんさんと降り注ぐという表現がぴったりの明るい病室だ。1号室は日当たりもあまり良くなく(第三話参照)、しかも比較的病状が重い人が入れられているので、雰囲気も暗いときてる。それに比べて、5号室には比較的病状の軽い人が入っている。そこに病状の重い奴が一人ポツンと入ってしまったわけだ。不思議なもので大部屋というのは一人でも病状の重い人がいると、それだけで部屋全体が何だか暗い雰囲気になってしまう。ミカンの箱の中に一つでも腐ったミカンがあれば、箱の中のミカン全部が腐ってしまう。ん? ちょっと違うか・・・。まあともかく、まさに私がそれになってしまったのだ。

 しかし周りの人には迷惑だったろうが、暗い病室で病気も重い人たちばかりの1号室より、明るい5号室の方がいいに決まっている。もちろん初めは、自分もせっかく慣れてきた病室を移るのはあまりいい気がしなかったけれど、それはそこ住めば都で5号室の良いところが見えてくる。それに窓際のベットだったので(窓際のベットは非常に人気があり、コンサートの席でいえばS席、舞台の最前列というところだろう)寝ているだけで、青い空を流れていく雲や、飛び交う鳥たちを見ることができた。七階だったから、ちょっとベットに起きあがると○○市の街並みも見える。まさに特等席である。

 この頃は、治療の副作用でベットにずっと寝たきりだった。不思議なもので、動こうとあがいて動けないとわかると、動こうという気持ちがなくなっていく。もちろん抗ガン剤の作用も多分にあるのだろうが、一日中ベットの上でピクリとも動かずにいても平気なのだ。星野富弘さんの詩に「動ける人が動かないでいるのには忍耐が必要だ。私のように動けないものが動けないでいるのに 忍耐など必要だろうか」という詩がある。少しづつ自分の状況を受け入れ始めたのもこの頃からなのかもしれない。まてよ、そうするといろいろなあせりや思い煩いは自分の姿を正しく受け入れていないというところからきているのかもしれない。
何はともあれ、昼間は流れてゆく雲を見て、夜はまたたく星を見る。ひょんなことから始まった病室移動騒動?は、私にとっても素晴らしい環境(病院の中で素晴らしい環境もないもんだが・・・)を与えてくれる主の計画だったのである。

第6話 副作用その2/2007.8.30

強い治療による様々な副作用の中で、食事とともに心に残る副作用は脱毛だ。
治療開始から1~2週間ぐらい過ぎた頃から脱毛が始まった。もちろん、髪の毛である。治療前の説明では全部は抜けないということだったが、どうも様子が違う。朝、目が覚めてみると、枕が髪の毛でうす黒くなっている。もちろん夜中だけ抜けるというわけではなく、昼間も抜けるわけで、ベットの周りが一面髪の毛になってしまう。指先でそっと髪をさわるだけで、いとも簡単に抜けていく。一向に止む気配がない。私はそこまでにはならなかったが、ひどい人は(多分体質も関係しているとは思うのだが)鼻毛まで残らず抜けてしまうそうだ。
 あまりにひどいので、少し短く切ってもらえば周りの人にも迷惑をかけずにすむかもしれないと思い(当時は髪が長かったので)、看護婦さんに切ってもらうことにした。ケア・ルーム(頭や足などを洗ったりする設備のある部屋)に移って、看護婦さんの慣れないハサミさばきが始まった。短くしようとしてハサミを入れるのだが、それだけでどんどん抜けていく。短くするつもりが終わってみれば髪の毛はほとんど抜け落ちていた。部屋に戻って鏡に写ったのは、髪の毛はほとんど抜け落ち、パンパンにむくんだ顔。そんな自分の姿を受け入れるのは、容易なことではない。

 「髪の毛なんて気にしないでしょう?」これが大部分の人たち、そう大部分のクリスチャンの人たちの言った言葉だ。髪の毛が抜けることぐらい大したことじゃない、命と引き替えにはできないよ、と。その通りである。しかし、誰よりもそのことをよく知っているのは本人なのだ。

 今回は、抜けた 抜けない なんてことを問題にしようなんて思っているわけではない。そんなことは小さなことだろう。「気にしないでしょう?」という言葉が出てくる背景に、何か違うんじゃない?という気がするのだ。もし本当に相手のことを思いやる心があれば、そういう言葉が簡単に出てくるとは思えない。それは、その言葉を言う人の理想の姿なんじゃないだろうか。
確かに抗がん剤の副作用で髪の毛が抜け落ちても、それを別段隠さずに笑っていられる人もいる。そしてみんなはその人を明るい強い人だと思う。私もそのとおりだと思う。
しかしそうすることが難しい人たちもまたいるのだ。その人たちは髪の毛のことなど気にしない人たちよりも弱くて、劣っている人たちなのだろうか?

 私たちは相手の立場に立とうとせずに、上から押しつけるような励ましや慰めをしていないだろうか。ガンでもうすぐ死ぬのを知っていたある婦人は、「苦しんでいる時は、苦しさを知らん顔でしてみているよりも、何か余計な気休めを言うよりも、ただ「苦しいのね」といった共感の一言だけが何より価値があるのです。自分の痛み、苦しみを、誰かがわかっていてくれる。それだけでよいのです。」と語った。
 相手の立場に立つなんて簡単にできることじゃない。ただ、神でありながら人と同じ立場に立ってくださった主ご自身を、絶えず見つめ続け、教えられることによってのみ培われていくものなのだろう。

「喜ぶものといっしょに喜び、泣くものといっしょに泣きなさい。」

「キリストは、神のみ姿であられる方なのに、神のあり方を
 捨てることができないとは考えないで、
 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、
 人間と同じようになられたのです。」    (聖書)

第5話 副作用その1/2007.8.28

治療開始の夜が明けた。不安はあったが、いつのまにか眠ってしまったようだ。不安といったってこの時点では漠然とした不安に過ぎないのだが・・・。
 朝食後から投薬が始まった。午後からは点滴と注射。錠剤60粒以上、粉薬、水薬、点滴と注射4本、これが一日に飲んだり、打ったりしなければならない薬の量。飲み薬は食後に飲むのだが、量の多さと体力の低下で(これも副作用だけど)毎回飲むのに1時間かかった。食事をしてるんだか、薬が食事なのかわかったもんじゃない。

 これだけの量の薬を、しかも毎日毎日4週間も体の中に入れ続けるのだから、副作用はなかなかにきついものがあった。食欲減退、吐き気、口の中は口内炎だらけ、脱毛、指先のしびれ、顔のむくみ、治療後期には貧血を起こして何度も気を失いそうになり、実際廊下に倒れたりもした。絶えず気分が悪く、回りにたくさんいる美人の看護婦さんに見向きもしなくなるなんてこれは大した副作用である。

 それら数ある副作用の中でも一番まいってしまったのが食事である。多量の薬のために、食事はほとんど受け付けなくなって、食べていないのに吐いてばかり。抗ガン剤の副作用で、妊婦のようにご飯の匂いをかいだだけで吐いてしまう。仕方がないのでパンに変えてもらったりもしたが、結局食べられなかった。(だから私は妊婦の気持ちがわかる、結構貴重な男性かも知れないのである。)

 最初のうちはさっぱりしたもの、例えば果物などは食べることができたが、しばらくすると口の中が口内炎で真っ白になり、しみて食べられなくなった。まるで計ったように、毎週2キロづつ体重が減っていく。病院の食事がダメなら他のものを、と思っていろいろなものを持ってきてもらったが、治療される以前の味がしない。食べ物のありのままの味がしないのである。健康な時にあれほどおいしかったものが目の前にあるのに、同じ味がしないのだ。食べ物の味をありのままに味わえることが、どれほどすばらしいことかつくづく感じさせられた。そのせいだろうか、私は食事をとってもおいしそうに食べる食べ方をする人が大好きで、回りにいる人達も何だかおいしいなあという気分にさせるような、本当においしそうに食べる食べ方に憧れているところがある。しかし、「うん、おいしいなぁー」と感情を込めて言ってはみるのだが、私の場合はどうも今ひとつ相手にうまく伝わらないようで、わざとらしい・・・と冷たい視線を受けるのが多い。本当においしいって思ってるんだけどなー・・。

 もとい。副作用で何を食べてもおいしくなかったときに、ただ一度だけおいしいと感じたことがあった。
『幸せの黄色いハンカチ』という映画をご存じだろうか。この映画の中で高倉健氏演じる主役のこんなシーンがある。
刑務所から出てきたばかりのこの男が食堂に入って、「かつ丼とラーメンの大盛り」と注文する。やがて目の前にかつ丼とラーメンが。健さんすぐに食べ始めずに、ほんの少しの間じっとかつ丼とラーメンを見つめる。そして次の瞬間、何日も食事をしていなかったかのようにガツガツと食べ始める。うーん、この気持ちすごく良くわかるなー。病院も刑務所も同じだと言った人がいたが、入院しているほとんどの人も、やはりラーメンを食べたいと思うらしい。日本人は自由になんでも食べられなくなると、まずラーメンを食べたいと思う!!確固たるデータは何もないが、私は密かにそう確信している。
 話がずいぶん遠回りをしたが、まあ要するに私もラーメンが食べたいと思ったわけである。でも病室にどーんと出前を取るだけの勇気もなく、カップラーメンをすすることとなった。

 本当は治療中はカップラーメンなどのインスタント食品は食べてはいけないらしいのだが、とにかく今はそんなこと気にしていられない。なにもおいしいと思えなかった日々の中で、いま食べているカップラーメンはとてもおいしい。主治医の先生ごめんなさい。看護婦さんすみません。でも、おいしい。おいくし食べられるって、なんてすごいことなんだろう。

 こんなふうにおいしく食べられたのは、治療中後にも先にもこれ一度だけ。というのも、それからはもう食べること自体がとても嫌になっていったからだ。でも、あのカップラーメンによってずいぶんと元気が出たと思っているのだか、それは私のひとりよがりであろうか。神様カップラーメンをありがとうございました。

第4話 治療開始前夜/2007.4.17

マルク。ドイツの通貨単位ではない。日本語で言えば、骨髄穿刺。血液の患者には、とくにひんぱんに行なわれる検査である。検査の方法は、一言で言えばきわめて簡単。骨に針を刺して、骨の中の骨髄を取りだし調べる。これだけである。なぜ血液の病気の患者に、とくにひんぱんに行なわれるかは、血がどこで造られているのかに関係している。

 さて、血はどこで造られるか?ある方は胸を張って“心臓″と答えてくれたが、心臓は大事なポンプの役目をしているのに、血まで造らせるのは少し酷だ。“肝臓″と言う人もけっこう多い。完全な正解ではないが、ハズレているわけでもない。なぜなら、造血組織だけでは間に合わなくなると、肝臓などの一部の臓器も血を造り始めるからだ。しかし、なんといっても血液成分は、主として骨の中、つまり骨髄で造られる。したがって、血液の製造工場はどうなっているのかな、ということを調べるのがマルク、というわけである。

 などと落ち着いて書いている場合ではない。大学病院に入院して行なう検査というのは、1にも2にもこのマルクだったのである。
 ところがこの検査。痛いのなんのって・・・。マルクにまつわる話しはあげればきりがない。明日マルクをしますと言われたおばあさんが恐くて一晩中眠れなかっただとか、検査をしようとした女の子が泣き叫んでなかなか検査できないとか、まあマルクという検査がどういうものかこれだけでも伝わってくるというものである。
 私も例外ではなかった。通常マルクは腰の骨か胸の骨で行われる。私の場合どういうわけか、腰の骨からはうまくとれないので、いつも胸からということになった。それも、初めから胸でやってくれればいいものを一回腰でやってみて、できないから胸でと言うパターンが何日も続いたのである。一日に2回!これにはまいってしまった。痛さと不安で、夜になるとベットの中で声を殺して泣いていた。

 しかし恐かったマルクのおかげで、病名が確定した。
病名が確定したということは、治療方法もそれにともない決定していくということだ。大学病院に転院して5・6日経ったある日の夜、主治医に「ちょっと話しをしよう。」と病室から呼び出された。

 私の主治医は、ドクターYとドクターHの二人。この大学病院では、入院患者を二人の医師が担当する。さすが大学病院、一人の患者に二人の医師とは体制が整ってるなー、と感心する方がいると困るので説明しておくが、二人のドクターは、二人とも経験を積んだバリバリのドクターではない。一人は確かにベテランの力のある医師である。しかし、もう一人のほうは、医学部を出て試験に受かったばかりの一年生ドクターなのだ。つまり、ベテランの医師が、臨床の手解きを手取り足とり教えるための体制で、決して患者中心に考えられているわけではない。 
 
 ついでに書いておくが、私の二人の主治医は二人とも立派な髭を生やしていて、これまた二人ともなかなかにいい男だったりする。実習に来る看護学生たちは、私の主治医が髭の二人だと知ると、
「えー、かっこいいよねー○○先生!主治医なんて、いいなー!」
 ・・・・・こらこら、医者のほうに気を取られていないで、患者の心配をしなさい、患者の心配を・・・・。

 もとい、呼び出したのはドクターH、一年生ドクターのほうである。もちろんこの病気の患者を受けもつのも初めて。
なにせマルクの検査をするときに、ベットに寝ている私の耳元にそーっと顔を近づけてきて、「多胡君、マルクやるの今日初めてなんだ・・」と告白してくださった方である。
「ここじゃなんだから」と二人で病室を出て、隣の婦長室へ。偶然に婦長室が空いているからここでいいやという感じで婦長室に入っていったが、どうも今考えるとしっかり計算して、婦長室へ行こう!と決めていたようだ。例えば、イスも二つ用意されていたし、誰もいないのにドアを開けたら電気がついていたし・・・・・・ドクター稼業もなかなかに大変である。

「病名がはっきりしたので、明日から治療をします。」
「はぁ。」
「飲み薬と、点滴、注射を使います。それから、副作用が多少でるかも知れないけれど。
 例えば、吐き気がしたり、手足の指先がしびれたり、髪の毛もちょっと抜けるかも知れない。」
「全部抜けちゃうんですか!?」
「いや、全部は抜けない、少しだけだよ。それで、その治療を4週間します。」
「4週間!それが終わったら退院できますか?」
「うん、経過次第でね。」

 4週間も治療をされたら、9月も終わってしまう。高3の一番大事な時なのに・・・。どんな病気なのかよりも、退院できないということのほうが重大だ。
「まあ、明日からがんばって。」
 何気なく言ったのか、それとも明日から大変な治療を受ける私を哀れんでくれたのか知らないが、本当に歯を食いしばって耐えなければならない治療が、夜が明けるのをじっと待っていたのである。

第3話 転院/2007.4.11

突然の入院から数日後、大学病院のベットが空いたという連絡があり、週が明けてさっそく転院とあいなった。8月の暑さの中を、宣教師のS兄姉の黄土色のセドリックのバンに揺られて大学病院へ向かった。この時、家にはまだ車の運転ができるものがいなかったので、S兄姉にお願いしたのだ。

 私達の目的地は大学病院の中の西三混合病棟、通称「三内」。血液と腎臓の患者専門の病棟である。混合という表現が使われているのは、病棟の隅に隔離されるようにして、結核患者の病室が2部屋あるからだ。それは7階という最上階のゆえである。

 大学病院に到着して、入院手続きを済ませると、レントゲンと心電図を撮ってから病棟に来てくれと言われたので、同行してくれた人達は先に病室にいって荷物の整理をしていてくれることになった。私は右も左も分からない大学病院の中を、案内の表示だけを頼りに、レントゲンや心電図はどこだ?・・・とまるで初めて都会に行った田舎者のようにキョロキョロしながら歩いていた。現在はさる大学病院もずいぶんと奇麗になったが、その頃のその大学病院は、まだ古い建物で、薄暗く、なんともいえない圧迫感があった。そう、いかにも病院という雰囲気を十分にたたえていた。そしてそれは、それほど深い考えでない私でさえも落ち込ませてしまうのに必要十分であった。あーあ、大学病院に入院したなんていえば病歴にハクが付くわ、なんて思ったけれど、えらい事になったなぁ・・・・・。すっかり気が滅入ってしまったが、どうにか検査を終えて、エレベーターで7階へと向かった。これから半年近くも外界に出られなくなるとは・・・・。

 私の病室は1号室。6人部屋の入ってすぐ左側のべットだ。両親、宣教師のSご夫妻、そして前橋の教会のM姉妹が、ぐるっと私のベットの回りを取り囲んでいた。荷物はもうすっかり整理されていて、後は私がパジャマに着替えるだけであった。今思えばみんな複雑な気持ちで私を見ていたんだろうなぁ。

 着替えがすんでみんなと少し話をした後、「もう帰っていいよ」と両親に言った。別段誰かいなければ困るわけでもなく、他の人も忙しい中を来てくださっているのだ、早く引き上げてもらって間違いはない。

 ところが、いざみんなが帰ってしまって、1人きりになると、さっきの気の滅入りがよみがえってくる。よーく見るとこの病室もあまり日当たりが良くなくて、まだお昼なのに薄暗い。気分を落ち込ませていくには、まさに絶好のシチュエーションだ。 いかん、いかん、少し気をまぎらわそう。ちょっと病棟の中でも散歩してみるか、と病室を出ようとしたまさにその時、矢のような勢いで看護婦がとんできた。
「どこいくの!」
「あ、ちょっと散歩でも・・・」
「ダメ、ダメ、ほらベットに戻って!」

 こちとら、自覚症状などは何もない。いたってピンピンしているわけだから看護婦の言葉に納得がいかない。おとなしい(?)性格の私にはめずらしく、しばらく食い下がったが、最後にはお願いだからと懇願されるしまつ。若くて美人の看護婦さんにそこまで言われて、なおも食い下がるほどの強い意志を私が持ち合わせているわけもなく、そそくさと病室に戻った。どうなってるのか、いったい何なんだろう。まるで喫茶店でコーヒー一杯だけ頼んだのに、「3000円です。」と言われたみたいだ。本来ならばここで、何かおかしい、自分は重い病気なんじゃないか、と疑うのが正しいのだが、そんなことは少しも疑わず(自覚症状が無いのだから、仕方がないと言えば仕方がないのだが)まあ検査も終わっていないし、しょうがないかと考えてしまうのが、私らしいと言えば私らしい。

1号室はナースステーションのすぐ横で、看護婦がすぐ飛んで来れる。つまり、それだけ病気の重い人が入る病室だなどという事は、もちろん知るよしもない私であった。

第2話 スタート/2007.4.4

わけがわからないまま入院になったが、そんなに重い病気だなどという事は初めから頭にないので、どれくらいで退院できるだろうかということが大問題だった。だが医者はちょっとわからないと言うばかり。
「精密検査をしてみないとはっきりわからないなー・・・。大学病院のベットが空きしだい移ってもらうから。」とのこと。大学病院!しかし、その時の純情な(?)私は、医者の言う事を素直に信じて、早く検査が終わらないかなーなどと思っていた。いやもしかしたら、本当に純情なのかもしれないな・・・。

 それでもいくらのほほーんとしている私といえども、いきなりの入院に不安にもなる。やはりそんなとき頼れるのは主のみである。どんなに自分を理解してくれる人がいたとしても、どうしても入ることの出来ない領域がある。御言葉に助けを求め、祈ることで平安を得たいと願った。『順境な時は感謝し、逆境のときは祈れ。』という言葉があるが、どちらかというとその時の私は『困ったときの神頼み』のレベルだったことはいうまでもない。そんなこと偉そうに書いてもしょうがないか・・・・。

 18の時の私はすでにバプテスマは受けていたし、高校生という見方をすればごくごく普通の高校生だったし、同年代のクリスチャン仲間の間でも特別異常ではなかったと思う(多分)。どうして自分は入院なんかになったんだろうと考えた。よく「どうして自分だけ病気になったんだろうと思わない?」と聞かれるが、他の人は病気にならなくて自分だけ、と思ったことはあまりない。どうして自分だけ、ではなく、どうして自分は病気になったのかが知りたかった。天地万物の造り主の前では、すべてに時があり偶然はないとしたらこの病気にも意味があるはずだ。自分の罪のため? これが一番しっくりくる。いかにも日本人的な発想であるが、とりあえず納得してしまうにはこれが一番だ。思いあたるふしもないわけではない。もっとも真の悔い改めはこんなものではないと思うが・・・。

 色々な考えが頭を巡った。だけどどうしても一つにまとまらない。そのくせお見舞いの人が来れば決してそんな素振りを見せないで明るく振舞う。我ながらそんな強がりをうらめしく思った。しかし、まだこの時点では不安はあってもそれほど深刻ではなかったのも事実。巷ではレストランなどで食事の後「ちょっと失礼」と言って、おもむろに薬を取り出して飲んだりする人をカッコイイ!と思う風潮があるので、自分もちょっと病気があってなどと言えば、ちょっとしたもんだな、などと不安の一方で思っていたりもしたのだから。