「むかしむかし、あるところに それはそれは美しいお姫さまがいました。」
こうして彼女の話が始まった。治療で風呂に入れなかった私が、ケア・ルームで看護婦さんの市川さんに体を拭いてもらっていた時のことだ。彼女はなかなかの美人で、隣のベットの清水さんに言わせると、病棟で1,2を争うほどである。その彼女がふと何を思ったか、体を拭きながら
「御香木の話し、知ってる?」と聞いてきた。
知ってるも何も、こっちは“御香木”がなんだかすら分からない。
「御香木は良い香りのする木のことでしょう。」と、
まるでそんなことも知らないのという笑いとともに、彼女は話し始めた。もちろんそこはプロ、しっかり体を拭きながらである。
『それはそれは美しいお姫様でしたから、たくさんの人が彼女を恋い慕っていました。
その中でも、彼女のことを思うと夜も眠れないほど彼女を慕っている1人の青年がいました。
彼女の姿を宮廷で見かけるだけで、彼の心は張り裂けんばかりにときめくのです。
そんなある日のこと。
大好きなお姫様が「かわや」へ行くのを見かけた彼は大きなショックを受けました。あんなに美しいお姫様が“かわや ”に行くなんて・・・。彼は美しいお姫様は“かわや”などには行かない、と心底思っていたのです。
しばらくショックから立ち直れなかった彼ですが、流行りの歌のように♪時の流れに身をまかせ~♪ているうちにそ のショックから抜け出したのでありました。まったく人間の心とは、いかに都合良く・・・いやいや良くできているか と 感心させられることしばしであります。
さて、ショックから立ち直った彼は、一つの疑問を持ちます。
「美しいお姫様は、普通の人と同じように“かわや”で用を足すのだろうか?・・・。」
ある日彼は決心します。お姫様が“かわや”から出ていった後に、そっとその“かわや”に忍び込みました。
当時の“かわや”には、広い部屋に用を足すための箱が置かれているだけのものでした。
彼は高鳴る胸を必死に押えながら、そっと箱のふたを開けたのです。
すると、そこには 良い香りのする一本の御香木が入っていました。』
とまあ、こんな話である。多少筆者が修飾したが・・・。 とにかく、彼女は突然御香木の話をしたのである。
「それで?」
と私は素直に聞いたが、彼女はせっかく話してあげたのに、この話の良さが分からないのかしら、と言う口調で、
「だから、美しい人は違うの!!」と一言。
落ち込みがちな入院患者を励まそうと思って話してくれたのか(それならもっと他の話しもあると思うが・・・)、それとも自分が好きな話をわざわざ打ち明けてくれたのか、まさか自分がその美しいお姫様だって言いたいんじゃ・・・。とにかく、どうも彼女の機嫌を損ねてしまったらしい。こんなことになるんなら、もっと素直に喜んでおけばよかった。彼女も彼女で、突然そんなことを話したのを少し恥じらっているようだ。
こんなときは面白いもんで、本来は看護するものと看護されるものという立場であるのだが、そんな境がふっと消える。それからは2人とも、照れくさそうに笑っていたとさ。
しばらくして市川さんは結婚をした。クラシック音楽の活動などにも参加していた彼女のことだから、相手も芸術的なことが好きで、ロマンティックな、そう、例えば御香木の話しなども「それで?」などと聞くような、野暮な人ではなかったのだろう。
めでたし、めでたし。
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