2013年11月14日木曜日

第20話 今を生きる/2010.5.11

ニコッと笑いながら、山本(仮名)さんが病室に入ってくる。初めて見る人は、ちょっとびっくりするだろう。いやいや決して山本さんの笑顔がひどすぎるなんてことではない。山本さんの頭は、見事に照り輝いているのである。とってもきれいな坊主頭。(坊主頭にきれい、汚いがあるかどうか知らないが・・・)

もしかしてお坊さん?と思いたくなるが、残念ながらお坊さんではない(別に残念ではないか・・・)。坊主頭が趣味・・・もとい、この人も治療のために髪の毛が全部抜けてしまった人なのだ。その山本さんが、同じく治療中で髪の毛がまったくない坊主頭の私のところにお見舞いに来てくれたわけである。うーん、二人の坊主頭の青年が親しく語り合う姿は、あんまり想像したくない絵柄のような・・・・。

青年と書いたが、この山本さん、工業大学の学生で、私がこの大学病院に転院してくるちょっと前にこの病棟を退院したのである。つまりわたしの先輩 (病棟のね)なのである。私と同じような血液の病気だったと思うが、この人の治療中の様子を聞くと、もうそれはそれは壮絶であって、私のほうが少しはいいかなーとさえ思えてくる。髪の毛はもちろん、体中の毛という毛、鼻毛まですべて抜け落ちて、薬のせいで腕を上げることすらできなくなったらしい。まばたきすら大変だったというのだから、もうそれってどんな世界?という感じである。

どうしてそんな彼と知り合うようになったかというと、当時この大学病院では私の知り合いのクリスチャンの看護婦の方たちが何人か働いていて、その中の一人の方が、山本さんを連れて私のところにお見舞いに来たのである。なぜ彼女が彼を連れてきたのか、その理由をはっきり覚えていないのだが、同じような治療をした者だから私の気持ちが良くわかるだろうということと、二人が同じような病気になった者同士で、聖書や信仰の話ができたらと思っていたのだと思う。

その後も、病院に検診に来るたびに、病棟まであがってきてくれて、私のところに顔を見せてくれた。私が大学病院での治療を終えて退院した後も、山本さんとの交流は続き、ときどき大学病院に診察に行ったときなども、待合い室で顔を合わせ、よもやま話をしたものだった。

私が退院してしばらくすると、今度は山本さんの方が、また入院することになった。点滴をしている私のベットのそばに座っていた山本さんが、今は点滴を受け、そのベッドの横に私がいる。人間全く次の瞬間どうなるかなんてわからないものだ。

自分自身を省みても、なんて愚かなんだろうと思うときがある。あれだけの苦しい治療をし、その中で神ご自身の御言葉と、兄弟姉妹たちの励ましと、多くの経験をしてきたのに、少し落ち着いた生活ができるようなったとたん、しまりのない歩みをしてしまう。病院のベットにいたときは、同じ病室の人たちが次々と亡くなっていくのを見て、次は自分かもしれないという緊迫感と、備えをしなければならない、神にあう時が明日くるかもしれないそんな思いだったのに・・・。

「明日神にお会いするように、今日を生きなさい」
誰の言葉か知らないが、ずきっとさせられる。いや、しかしまさにその通りだ。
今を、今をどのように生きているのか。退院して落ち着いたら、今ベットに寝ている山本さんと同じ立場に立てなくなっている自分。なんて自分勝手なんだろう。明日私はこの地上にいないかもしれないのに・・・。
落ちていく点滴を山本さんとともに眺めながら、静かに時間が過ぎていく。

好きな言葉、「根性」「Attack is the best defence」(攻撃は最大の防御なり)。
私のアドレス帳に山本さんはそう書いた。積極的で、明るい彼が好きそうな言葉だ。
実際の彼に会ったら、これを読んでいる人誰もがなるほど彼らしいと思うだろう。
もし彼がまだ生きていればの話だが。

聖書の中にクリスチャンは雲のように多くの信仰の先達に取り囲まれてこの地上を歩んでいるという箇所がある。私はその証人の他に、山本さんをはじめ私にかかわって私より先に亡くなった方たちが、私の歩みを見ているような気がする。今日の歩みは、彼らの命に答えているものだろうか、と思う。

「こういうわけですから、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまとわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐を持って走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」 (新約聖書ヘブル12:1,2)

0 件のコメント:

コメントを投稿