2013年11月2日土曜日

第19話 大工の清水さん/2008.10.22

「この間新しいバイクを買ってさー、関越自動車道で200km出してみたんだけど、さすがにびびったねー。」
なんとまあ、突拍子もないことをするか、と耳を疑いたくなるが、小柄な体で1000ccもあるようなバイクを乗り回す、私のとなりのベットの清水さんはそんな人だった。彼の仕事は大工。前に何度かこの話の中にも出てきたから、覚えている人もいるかも知れない。彼の気さくな性格もあって、よく大工仲間が、特に十代の若い大工青年たちがよくお見舞いに来ていた。

日曜になると、必ず奥さんが二人の女の子を連れてやってくる。大工さんだけあってなかなかにいなせで、楽しい清水さんによく似合った、明るく豪快なお母ちゃんといった感じの奥さんだった。清水さんが小柄でやせているのに対して、奥さんは本当に体格がいい。蚤の夫婦とは、このご夫婦のためにある言葉であろうと思われるほどである。

清水さんが入院してきたのは、夏の暑さもそろそろ消え始める秋ごろだった。仕事で屋根に登っていたら、くらくらしてきて立っていられなくなり、病院に行ったところ入院ということになったらしい。大工ならシンナーを扱ったりすることがあるから、初めはそのせいだと思っていたらしいが、検査を進めていくうちにそうではないらしいということがはっきりしてきた。

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ある夜のことだった。消灯時間になって、病室の電気が消され、それぞれがベットの中にもぐりこんだ。
10分、いや20分ぐらいたったときだろうか、隣のベットで寝ているはずの清水さんが突然私に話しかけてきた。

「なあ、多胡くん。今日昼間に母ちゃん(奥さんの意)が来ただろう。」
「はぁ、来ましたねぇ。」

二人とも自分のベットに寝たまま、暗闇の中で天井を見つめながらの会話である。もちろん互いの顔などは見ることはできない。

「今の母ちゃんさぁ、三人目の母ちゃんなんだよ。」
「・・・」
「最初の母ちゃんとは死に別れて、次の母ちゃんとは離婚して、今の母ちゃんは三人目なんだよ。」

暗闇の中で突然話しかけてきたと思ったら、一体何のことを、私の頭はどのようにそれを受け止めてよいかわからなかった。こういうときには、やぁそうでしたかとか、大変でしたねぇなどと、とりあえず言ってしまうのが私なのだが、このときは、突然、しかも考えたこともないことが来たので言葉を返すこともできなかった。

「なぁ、多胡くん。母ちゃんを選ぶときは顔で選んじゃいけないぜ。
 俺の友達で絶世の美女と結婚した奴がいるけれど、家の仕事は何もできない、もうただの置物さ。
 俺の母ちゃんは、見かけは良くないけれど、家のことをちゃんと任せておけるからな。」

美人の方の名誉のために一言付け加えさせてもらうが、美人の人すべてが清水さんの言う通りだと言っているわけではないので、あしからず。
でも、何で清水さんは突然そんなことを言ったのだろう。病院のベッドに寝ているうちに、過去のことを思い出して感傷にでもひたっていたのだろうか。それとも、ちょっと驚かせてやろう、とでも思ったのだろうか。しかし、私に話していながら、自分に言い聞かせているような話し方をしていたのはどうしてだろう・・・ 。

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清水さんの病気は、再生不良性貧血だった。難病に指定されている病気である。ある日を境にして、発熱が始まり、もう熱が下がることはなかった。かなり大変だったとみえて、あの威勢のいい清水さんがぽつんと一言「まいった」とつぶやいた。いつの間にか秋が終わり、師走を迎えた世間の人達は忙しく動き回っている頃だった。
 
その頃私は治療成績優秀ということで、年末年始の外泊を許された。久しぶりの我が家!胸が躍った。外泊するその日、清水さんの病室に顔を出すと、愛嬌ある笑顔で私を送り出してくれた。
                
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久しぶりの我が家を十分満喫して帰ってきたときには、清水さんのベットは空になっていた。
他の患者さんの付き添いの人が、
「きのう急にだったんだよ。頭の血管が切れたみたいでねぇ。結構元気だったんだけど・・・。」
と話してくれた。

まさか・・・。
想像もしていないことだった。具合は確かに良くなかったけど、でもこんな急に・・・。マットレスだけになったそのベットを私はしばらく呆然と見つめていた。頭の中には、清水さんの愛嬌のある笑顔が浮かんでくる。あまりの呆気なさに、まるで現実感がない。
清水さんの笑顔が消えると今度は、あの豪快で、いかにもかかあ天下のお母ちゃんといった感じの清水さんの奥さんの顔が浮かんだ。でも私の脳裏に思い浮かんだのは、いつものあの笑顔の奥さんではなく、深い悲しみに包まれている顔だった。


『罪からくる報酬は死です』
聖書の御言葉は確かに真理だ。この世で罪のない者はいないし、だからすべての人が死ぬ、これは大原則だ。ということは、逆に言えば罪がなければ死ぬことはない、罪のない人が死ぬということがあったとしたら、それは原則に反した、例外的な、奇跡的な死だということになるだろう。
 
イエス・キリストは、ただ一人罪のない生涯を歩まれたお方だ。だから、聖書の原則に当てはめてみれば、このお方は死ぬことがない。死のうと思っても、罪がないから死ねない。ところがどうだったろう、キリストは二千年前、確かに十字架にかけられ、殺された。死ぬはずのない方が、確かに死なれたのだ。キリストの死は、はたして例外的な、奇跡的な死だったろうか。いや、私たちと同じように、苦しまれ、死んでいかれた。そこには、奇跡的な要素などなく、死に渡されていく姿を見ることができる。確かに主は、罪人の罪を負って、みずから罪ある者かのように死なれたのだ。私たちの罪を、ご自身の罪かのように背負われ、ご自身の罪として、死んでくださった姿を、あの十字架に見ることができる。
『そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。
 それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。
 キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。』(聖書)

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