2013年10月31日木曜日

第6話 副作用その2/2007.8.30

強い治療による様々な副作用の中で、食事とともに心に残る副作用は脱毛だ。
治療開始から1~2週間ぐらい過ぎた頃から脱毛が始まった。もちろん、髪の毛である。治療前の説明では全部は抜けないということだったが、どうも様子が違う。朝、目が覚めてみると、枕が髪の毛でうす黒くなっている。もちろん夜中だけ抜けるというわけではなく、昼間も抜けるわけで、ベットの周りが一面髪の毛になってしまう。指先でそっと髪をさわるだけで、いとも簡単に抜けていく。一向に止む気配がない。私はそこまでにはならなかったが、ひどい人は(多分体質も関係しているとは思うのだが)鼻毛まで残らず抜けてしまうそうだ。
 あまりにひどいので、少し短く切ってもらえば周りの人にも迷惑をかけずにすむかもしれないと思い(当時は髪が長かったので)、看護婦さんに切ってもらうことにした。ケア・ルーム(頭や足などを洗ったりする設備のある部屋)に移って、看護婦さんの慣れないハサミさばきが始まった。短くしようとしてハサミを入れるのだが、それだけでどんどん抜けていく。短くするつもりが終わってみれば髪の毛はほとんど抜け落ちていた。部屋に戻って鏡に写ったのは、髪の毛はほとんど抜け落ち、パンパンにむくんだ顔。そんな自分の姿を受け入れるのは、容易なことではない。

 「髪の毛なんて気にしないでしょう?」これが大部分の人たち、そう大部分のクリスチャンの人たちの言った言葉だ。髪の毛が抜けることぐらい大したことじゃない、命と引き替えにはできないよ、と。その通りである。しかし、誰よりもそのことをよく知っているのは本人なのだ。

 今回は、抜けた 抜けない なんてことを問題にしようなんて思っているわけではない。そんなことは小さなことだろう。「気にしないでしょう?」という言葉が出てくる背景に、何か違うんじゃない?という気がするのだ。もし本当に相手のことを思いやる心があれば、そういう言葉が簡単に出てくるとは思えない。それは、その言葉を言う人の理想の姿なんじゃないだろうか。
確かに抗がん剤の副作用で髪の毛が抜け落ちても、それを別段隠さずに笑っていられる人もいる。そしてみんなはその人を明るい強い人だと思う。私もそのとおりだと思う。
しかしそうすることが難しい人たちもまたいるのだ。その人たちは髪の毛のことなど気にしない人たちよりも弱くて、劣っている人たちなのだろうか?

 私たちは相手の立場に立とうとせずに、上から押しつけるような励ましや慰めをしていないだろうか。ガンでもうすぐ死ぬのを知っていたある婦人は、「苦しんでいる時は、苦しさを知らん顔でしてみているよりも、何か余計な気休めを言うよりも、ただ「苦しいのね」といった共感の一言だけが何より価値があるのです。自分の痛み、苦しみを、誰かがわかっていてくれる。それだけでよいのです。」と語った。
 相手の立場に立つなんて簡単にできることじゃない。ただ、神でありながら人と同じ立場に立ってくださった主ご自身を、絶えず見つめ続け、教えられることによってのみ培われていくものなのだろう。

「喜ぶものといっしょに喜び、泣くものといっしょに泣きなさい。」

「キリストは、神のみ姿であられる方なのに、神のあり方を
 捨てることができないとは考えないで、
 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、
 人間と同じようになられたのです。」    (聖書)

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