2013年10月31日木曜日

第12話 病室のバレリーナ/2007.10.9

その娘(こ)と初めて顔を合わせたのは、私の退院もまじかに迫ったある冬の日だった。彼女のことは前から知ってはいたが、お互いの治療があったり、私は大部屋、彼女は個室ということもあって、顔と顔を合わせたことは今までなかったのだ。いつも彼女に付き添っている彼女のお母さんの招きで、初めて彼女の病室に足を踏み入れた。彼女は私より一つ年上で、当時十九歳。入院してからもう一年に近づこうとしている。高校を卒業後、専門学校に入学、その直後入院になったのだという。

 彼女のお母さんは年令よりもずっと若く見えて、ほとんどの人がお姉さんが付き添っていると思っていたほどだ。このお母さんの笑顔は愛敬があってとても好きだったのだが、一度愛敬を通り越して“ドキッ”とさせられたことがある。

 私のベットの枕元は、同級生やら教会の人やらにもらったお見舞いのぬいぐるみでいっぱいだった(何でそんなことになったかは、よくわからない・・・)。そしてまた新たに同級生が新しいぬいぐるみを持ってきた。緑色の恐竜のぬいぐるみで、背中のこぶを使って輪投げをして遊ぶことができるようになっている。入院していてたいした楽しみもない中にあって、その恐竜の輪投げぬいぐるみは、まさに突如として現われたヒーローとなったのである。
 かくて入院患者だけでなく、看護婦、補助婦、はてはお見舞いの人や医者まで巻き込んでの大輪投げ大会が始まった。みんな盛り上がって、笑ったり、拍手をしたりしていたその時、「何やってるの?」と彼女のお母さんが顔を出した。
「あ、うるさかったですか?」と私が聞くと、
「いえ、あんまり楽しそうな声が聞こえるので、何やってるのか娘に見て来てって言われたのよ。どうぞ続けて。病棟の雰囲気が明るくなるわ。」と言ったその後に
「今度は娘も仲間に入れるように元気になるから。」と言って微笑んだ。
その微笑んだ顔は、深い苦しみと戦っている人だけが作れる強さと悲しみが見えたような気がして、私は思わず彼女の顔をじっと見つめてしまった。

 娘を治したい、ただそれだけが彼女の支えだったのだろう。私の病気がリンパ性の病気だと知って、娘も同じだからとしつこいぐらい私の治療や様子を聞いてきたこともあった。それもこれもみんな、娘を元気にさせてあげたい、また普通の生活をさせてあげたいという心からだろう。いつの日か病気を完全に克服した娘の姿を心に描くことで、この母親はここまでやってきたのだ。

 彼女の病室は冬の陽射しで満たされていた。その光が差し込む窓辺に、一枚のパネルが立てかけてあった。
「これ娘なんですよ。」とお母さん。
そのパネルには、真っ白なドレスを来てバレエを踊っている彼女の写真が入れられていた。
「今はこんなだけどね。」と彼女。
治療のために髪の毛は抜け落ち、顔はパンパンにむくんでいるその姿は、パネルの中の彼女とはあまりにも対照的で、そして彼女の病気の重さを物語っている。
「また元気になってバレエするんだよね。」と彼女のお母さん。
「そうだよ、がんばらなきゃ・・・。」と私。
私のそんなありきたりの、あまり思いやりがあるとは思えない言葉に静かに微笑む彼女。治療もあまりうまくいかず、何度も何度も薬や治療の方法を変えたりしてはいるのだが、副作用だけが増えて肝心の病気のほうは一向に良くなる気配はない。そんな状況なのに、彼女の瞳はまだ完全に輝きを失っていないように思えた。それはきっと、もう一度スポットライトを一身に受け、舞台の上を自由に踊る日を心に描いていたからだろう。彼女にとってそれは大きな支えだったのだ。

 聖歌の中にも病にある娘がいる。バレエが入院していた彼女の支えだったように、聖歌の中の彼女の支え、それはイエス・キリストであった。多くの人とベットをならべ、また共に病気と闘った私にとって、聖歌の中のこの彼女の姿は深い感動をもたらしてくれる。歌詞からすると、彼女の病気は、もはや治る見込みのない病気だったようだ。しかし彼女の持っていた希望、彼女を支えていたものは、いつの日かかなうかもしれないというようなものではなく、今現実に彼女を満たし、喜びにあふれさせていたのだ。その微笑みはどんなに素晴らしく、そしてたくさんの人を慰めたことだろう。

『病の床にて 主の召したもうを 待つ娘よ
 なにゆえ 望みに 輝き微笑む
 語り告げよ
 イエスは 我のすべてなれば
 イエスは 我のすべてなれば』  (聖歌473

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