2013年11月1日金曜日

第14話 片腕の少年/2008.1.10

 私の入院していた西混合病棟七階から、エレベーターで一階まで一気に降りると、そこから大学病院の中で一番長い廊下がのびている。エレベーターを降りると、すぐレストランがあり、ついで外科病棟への入り口がある。それから売店があって、他の病棟に行くバイパスがある。そして、放射線科があり、外来へと続き、おもてに出る。ざっと100メートル以上はあろうかと思われる。

 治療と治療のあいまの比較的からだが楽なときに、私はエレベーターを降りてすぐのところにある自動販売機にでかけては、コーヒーを一杯飲むのが好きだった。自動販売機のかたわらにある長椅子にすわって、熱いコーヒーを飲みながら行き交うたくさんの人を見ていると、そこには病室の中にはない人間の動きが感じられた。病室の中と外の世界とでは、全く流れている時間が違う、同じ一つの世界の中にあってどうしてなのだろう。

「ばかやろう。!」
 私のそんなセンチメンタルな考えをその声はぶち破った。すわ何事か、と思って声のするほうに目を向けると外科病棟の入り口にある公衆電話からであった。まだ中学生ぐらいだろうか、やせている少年だった。とにかく言葉遣いがひどい。話の様子から見るとどうも家族の、それも両親と話しているようだったが、けんかでもしているようである。内容は彼の両親が今度病院に来るときに持ってきてもらいたいものについての話だったようだが、あれぞ罵声という言葉遣いだった。しかも叫ぶように大きい声で話しているので、回りに響く響く。廊下を行き交う人もなんだこいつは、という目で通っていく。

 よく見ると彼には左腕がない。中学生ぐらいで、外科病棟に入院していて、しかも片腕がない。髪の毛も抜けてしまっていて、帽子をかぶっているのは多分薬のせいだ。となれば、おそらく彼の病気は骨肉腫のような病気なのだろう。まだ中学生ぐらいの若さで、思ってもみなかったような病気によって片腕を奪われてしまったその気持ちは、いかばかりのものか・・・。その気持ちが、両親にむかってのあの厳しい、そして激しい言葉になって出ているのだろう。その言葉を聞かれている御両親の気持ちも、これもまた言葉に表わすことのできない切なさであったろう。なぜなら、強く叫ぶようなその声は、こう言っているようにしか聞こえなかった。
「なぜ俺を産んだんだ!なぜ片腕を切り取られなければならないような体に産んだんだ!
 何で俺は生まれてきたんだ!」と。

 そしてその声は、私に向かってもこう言ってきた。
「神がいるなら、なんで俺はこんなふうに生まれたんだ!」と。

 私はその声に対する答えを、そのとき持っていなかった。私だって、他の人から見ればあの少年となんら変わらない状況なのだ。髪の毛は抜け落ち、病気もこれからどうなるかわからない。どうしてそんな痛みを。どうしてこんな苦しみを。

 もちろん、今すぐに簡単に答えを出せる質問ではないのかも知れない。すべてのことは天の御国に行かなければ、わからないことだ。もちろん、一人一人の様々な状況にあった対応を神はしてくださるはずだ。ただ今は、一つだけ、彼にこう言えるだろう。それは、生まれてこなければ、私達はキリストに出会うことはなかった、もし生まれなければ、私達は永久にこの素晴らしい御方とめぐりあうことは出来なかったのだ、ということを。

 どんなに苦しくても、その状況が理解できない理不尽な痛みに満ちていても、生まれてきたことによって、私達はキリストに出会うことができるようになったのだ。それは、生まれてこないことにくらべたら、御自分の命をかけて、愛してくださる方に、めぐりあえないことに比べたら、素晴らしいことではないだろうか。私たちは生まれたことによって、このお方とめぐりあえるチャンスをいただいたのだから。
あなたにいのちが与えられたのは、愛されている証拠なのだから。

「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。」(聖書 ヨハネ15:9)

この聖書の言葉を覚えてほしい。
神は私達を被造物の最高のものだから、創られたものの中で一番良いものだから愛する、という愛ではなくて、父なる神がイエス・キリストを愛されたように、同じ愛で愛してくださるのである。

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