2014年2月13日木曜日

十字架とは、神と人の立場が逆転した場所 /2013.3.15

十字架とは、神と人の立場が逆転した場所。

エデンの園で、人間は自らを神としたいと神から離れた。

しかし、その人間を創造主なる神は決して見捨てられなかった。
何度も何度もご自身のもとに帰るようにと声をかけ続けた。

そしてついに神は「神のあり方」を捨てて、「神になろうとした人間」と同じ所に立たれた。

「神になろうとした人間」と「人間となられた神」。

十字架において、ついに人は神を従えたかのように見えた。
人に裁きを与えるはずの神は、人から裁きを受けられた。

「本当に神なら、今十字架からおりてきてみろ!」という声に、イエスは何も語られず、ただ十字架で苦しみを受けられた。

イエスの死は、神への勝利、人間はついに神の立場を勝ち取ったかのように見えた。

しかし、勝ったのは神、勝ったのはイエスであった。
いや、勝ち負けという表現は正しくないだろう。

愛だったのはイエスだった。
神を拒んだ頂点の十字架で、神は人間に頂点の愛を与えていた。

人間が神に挑み、実現したかのように見えた十字架。
しかし真実は、神が愛だからこそイエスの十字架は実現した。
神が愛でなければ、十字架は存在しない。

十字架とは、神と人間の立場が逆転したかのように見える場所。
しかし、実は神が神であることが最も鮮やかに示されている場所。

十字架は神が神であることの証しであり、人が神になれないことの証しでもある。
神はどこまでも愛なのだ。

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