2013年11月1日金曜日

そして僕は途方にくれる/2008.4.7

 聖書は超古文、しかも異文化の。現代に通用するメッセージにするには、ただ翻訳するだけでなく、当時の文化、習慣、思考、言語などを考慮する必要がある。そのテキストに込められている、全時代・全文化に共通するメッセージをくみ出す、つまり現代の人へのメッセージとして変換する作業だ。

 そこで問題が起きる。聖書を解釈し、伝える人々が全て同じメッセージに変換してくれれば良いのだが、大きい点から始まり、小さい点にいたっては無数の違う解釈がある。するとそれらの解釈を聞いた者は、自分で取捨選択をしなければならなくなる。

 そうするとどうしても自分に都合の良い解釈を採用したくなる。そしてそう解釈してくれる人を味方につけ、自分の正当性の後ろ盾にしてしまう危険性が絶えずつきまとうということになる。

 しかし、それ以上に聖書のメッセージを伝える者にとっては、もしかしたら自分の理解が、誰かを聖書の言わんとしていることの理解へ導き、神の前にへりくだらせるのではなく、自分の罪を隠し、正当化するための手段として使われてしまうこともあるということだ。やはり聖書を解釈し、伝える者の責任は大きいだろう。そのメッセージによって人は生きもし、死にもするのだ。

 クリスチャンは自由な律法によって裁かれる者だ。解放されている存在。真に聖書のメッセージを受け取れるなら、その人の生き方は目的を持ち、力強く、以前の生き方には戻りたくないと感じさせるもののはずだ。

 聖書のメッセージを語らせていただいている者のはしくれとして、自分は聖書の言わんとしていることを、そのまま伝えられているだろうか?自分の話したことによって、誰かを縛り付けていないだろうか?自分の話したことによって、誰かの罪を正当化してしまうようなことはないだろうか?
 自問自答する毎日だ。

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