2013年10月31日木曜日

今年最後のつぶやき/2005.12.31

もうすぐ2004年も終わろうとしている。これを読んでいる皆さんにとって今年はどんな1年だったろうか。クリスチャンにとっては一年が終わると言うことは、それだけ創造者なる神に会う時が近づいたということだ。いやそれだけではない、すでに神の御許に召された人たちと再会する時も近づいたということだ。

母が天に召された時、握り締めていた母の手の温もりを今でもはっきりと覚えている。父のなきがらと二人だけで過ごした夜、そっと父の顔に触れた時の冷たさもこの手から消えることはないだろう。

「あなたが今日なんとなく過ごした一日は、昨日死んだ人があれほど生きたいと願った明日」。作者などは忘れたが、この言葉は忘れることなく私の心に残った。この一日は私に与えられた神からの贈り物だ。この一日を願っても得ることのできなかった人もいる。大切に生きよう。明日があることを当たり前と思うのは止めよう。そして天を見上げよう。私たちのゴールはこの地上にはない。だからこそこの地上で全てを出し切って精一杯生きることが出来る。

『中国の獄中で殉教したある伝道者の歌』という歌がある。作者は中国政府によって投獄され、拷問を受け、棄教を迫られ、そして殉教したキリスト教伝道者だ。拷問から逃れるため、ほんの一瞬だけ、目に見えるこの世界が全てだと言えば、彼の苦しみは取り去られただろう。でも彼はゴールはどこかを知っていたのだ。今年の締めくくりに(そしておそらく新年にこれを読む多くの人に)この歌を紹介しよう。

『中国の獄中で殉教したある伝道者の歌』

もしもほんの少しだけ 神の道離れたなら
私はすぐに楽になる この苦しみ取り去られるのだろう
もしもほんの少しだけ 十字架から目を離せば
私はすぐに楽になる この痛みも取り去られるのだろう
だけど私は主キリストを覚える 
そのお方がどれほど 忠実に苦難を忍ばれたかを
私はもうこの世の者ではない あらゆる関わりは解けたから
たとえこの道狭く苦しくても 私はこの地では旅人でありたい

もしもほんの少しだけ 神の愛に背を向けたら
私はすぐに楽になる この悲しみ取り去られるのだろう
もしもほんの少しだけ 神の言葉偽ったなら
私はすぐに楽になる この孤独も取り去られるのだろう
だけど私は主キリストを覚える
そのお方がどれほど 命をかえりみずに愛されたかを
私はもうこの世の者ではない あらゆる関わりは解けたから
たとえこの道狭く苦しくても 私はこの地では旅人でありたい

人が私を冷たく笑っても 私はキリストのほほえみだけを
よくやった忠実なわがしもべよ そのお言葉だけを求めてゆきたい
ちなみにこの歌はメロディーがついてます。聞きたいという人は私に言ったら歌ってあげます、アカペラで。大丈夫、わたしの歌声がどんなにあなたを絶望させても、あなたには天国の希望がある。

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