2013年10月31日木曜日

愛という名のもとに/2006.11.24

「イエス・キリストは好きだが、教会やクリスチャンは好きではない。」日本の教会がなかなか成長していかない背景には人々のこんな意識があるという調査結果をよく聞く。この調査結果、わからないわけではない。確かにそう思いたくなるような教会やクリスチャンがいるのかもしれない。私たちにも反省すべき点があるだろう。

 しかしこの調査には決定的なものが欠けている。この質問に答えたクリスチャンでない人たちがイエス・キリストに対してどんなイメージを持っているのかという点だ。もし「イエスは愛の人、素晴らしい教えを残した人」程度のイエス理解であるなら、この調査結果は大した意味が無くなってしまう。それならみんなイエスが好きであろう。

 真実のイエスは私たちにこのように問いかける。「あなたは自分中心の生き方を止めて,わたしに従いなさい。自分の考えではなく、わたしの考えに従いなさい。」
 2000年前、最初喜んでイエスを迎えた人たちの多くが、最終的にはイエスを十字架につけろと叫んだ。イエスによって自分の本当の姿を知らされた時、イエスが自分の考えに合わないとわかった時、人々はイエスを殺すことをためらわなかったではないか。
 冒頭の調査を2000年前、イエスが現れた時の民衆に行ったら同様の結果が出たであろう。みなが「イエスは好きだ」と答えただろう。しかし歴史はイエスに付き合い、イエスの言葉を聞き、イエスの生き方を見た人たちの多くはイエスから離れていったことを証明しているではないか。

「イエスは好きだが、教会やクリスチャンは好きではない」と言った人たちのどれぐらいが、イエスを主として従い、イエスを愛して歩もうとした人たちだろうか。間違えてはいけない、教会やクリスチャンを愛せない人が、イエスを愛しているとは言えないということを。多くの人はイエスを好きだけれど、愛してはいないのだということを。

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