2013年10月31日木曜日

スラバヤ通りの妹へ/2007.11.18

インターネット時代になって様々な情報が瞬時に手に入るようになった。聖書やキリスト教に関するサイトも増え、伝道の道具としても利用されるようになった。
 神学的な問題から解釈学、言語、教会史に至るまで学ぼうとする者にはどの資料にあたればいいのか情報を提供し、実際に学ぶこともできる。もちろん実際に大学の神学部や神学校などの専門機関に入学し、何年もかけて学び、神学の博士号を取ることを目指すようなことは難しいかもしれない。しかし学びたい者には以前と比べたら比較にならないほど多くの情報が早く手に入れられる時代になったのは間違いないだろう。
 聖書を学び始めると、実は面白いのだ。中世では学問といえば神学と言われたそうだが、勉強の対象として聖書を見ても実に面白い。
 ところがその面白さが罠になってしまう。解釈の方法や言語について、当時の歴史や文化と聖書の言葉使いの関係などに心を奪われてしまうのだ。それらは大切であることに間違いない。しかしキリストの姿を思い出すのだ。
 彼は「食いしん坊の大酒飲み、酒税人や罪人の仲間だ」(ルカ7:34新改訳)とあざけれた。だが彼こそこの世界の創り主、すべての知識と知恵の上に立つお方なのだ。その彼は罪人の中で生き、ともに食べ、飲み、彼らの話を聞き、ともに笑い、ともに泣かれた。
 本当に人を生かす知識を持っているとはこういうことなのだろう。「その知識をキリストのようになることに役立てているだろうか?」そんな視点を持ち続けたいものである。

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